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このページでは過去のお気に入りアニメについて軽く書き散らかしてみたいと思っています。各話粗筋感想とか To Heart みたいに専門ページ起こそうとしてるけどまだできてなかったりします。ランキングにしてもいいけど気分で曖昧なので。そういうわけで今んとこ一部はタイトルだけ挙げておきます(汗)。こういうのが好きなのねってだけのページ。あ、順不同です、深い意味はありません・・・たぶん。気が向いて見返していったやつから感想書こうかなァと。

[99年6月30日]




serial experiments lain

[初見の印象評]

それは、玲音の自我、"ワタシ" という存在の主体は "ある" 、ということ、レイヤー各話放映の有機的な積み重ねによって、ブラウン管から「あたしはここにいる」と叫んだ "絵に描いた女の子" に対して、視聴者である筈の僕が彼女の自我の存在と痛みを感じられた、奇怪な現象そのものだった。

未だ自己の自明としてのみ自我の存在が証明される、筈ではあり・・・虚構/現実が古臭いなんて言ってる場合じゃない古さであり、酷似するテーマの作品などは星の数ほどあろうかと想像するけれども。
しかし、現代に生きている僕達、たとえばネットワーカーであるとかアニメファンであるとかゲーマーであるとか、そうした自分自身の置かれた逆説的状況をイタイほどつぶさに拾い、嬉し恥ずかしいくらいスタイリッシュに主観的美化された状況を再現することによって、リアルタイムで "今日、現時刻" に同じ痛みを味わう他者の自我を我がことのように見せつけた、という点で lain は前代未聞の作品である。

「私達には、あなたが何なのか未だに理解できていない。しかし、私はあなたが好きだ」
レインの出自には諸説あり、一通りの解釈を許さず、定かではない。lain 視聴者の間でも複数の見解があり、僕個人の中にも複数の見解がある。折に触れて再考したり、他の方々の意見に触発されて、徐々にその輪郭は見えてはきているが・・・。

レインの自我がいったいどこからきたのかに至っては、まったくの謎だ。・・・しかし思えば我々自身もどこからやってきたのか、わかったものではない。人間の心はもとからそこにあったのか、というと甚だ疑問だ。人間に育てられなくては人間は人間の心を獲得できないからだ。・・・ということはあるとき、たったひとりの人間に芽生えた心が今までずっと複製され続けてきたのかもしれない。他者の中に自我の存在を "想像" した瞬間に形成されるのかもしれない。

レインがそこにあることを自分や他者に証明するには「わたしはここにいる」と叫ぶしかない。しかし、いきなりブラウン管から血肉を持たぬ絵に描いた女の子が叫んだだけではまったく説得力がない。では、lain という作品を見る者がなぜそこに自我の存在を感じられたか。

それは背反する二つの主張をともに肯定(または無効化)する逆説を内包しているからだ。自分の思考を自己参照する自己という存在、この現代の世界で自分自身が置かれている状況、それらがみな二律背反を満たす逆説であることから、lain は我々視聴者の姿そのものである。

「肉体のぬくもりや喜び / 肉体の苦痛から解放された精神の安寧」
「人はみなつながっている / 人はつながってなんか、ない (=境界面がある)」
「きおくなんてただのきろく / 今の記憶、明日の記憶」
「どこにもいないわたし / どこにでも遍在しているわたし」

だから、もしレインが「あたしはここにいる」と叫べばそれはそこにある、僕自身も主体として感じ、「オレはここにいる」と叫べばそれはここにある。そこにレインがいることを僕が感じることができれば、そこにレインの存在を感じることのできる僕はここにいる。
自我(と認識されるもの)同士は相互補強的に存在の確信を持つ。レインの存在があること自体充分に SF的だ。しかしその存在があることは、自分自身の自我という現実的かつ SF的な存在がある(と僕が自覚する)からこそ証明される。そういう "気がする" ことをさせるのが lain という作品の目的かと思う。その目的は達成されている。

実験的作品を標榜し、事実 "実験的" 印象故にエンタテインメントとして未完成であるかのような批評をする者もいる。しかし制作者の執念によって作り込まれたシナリオ、演出、レイアウト、作画、演技、音響、すべての面においてその完成度とバランスはあらゆるアニメ作品の中でも突出している。惜しむらくは老練な精神には必要とされない処方箋であるということか。

(99.2.? 投稿 / 99.6.30 改稿)



[NAVIと脳の動作原理、身体性の神]

lain世界のNAVIが我々のPCと違うのは動作原理と速度だそうです(シナリオから)。レインのサーバは量子論的記述により物質世界を再構成できます(by OZさん)。とすると元々NAVI(またはプシュケー)は量子論的エンジンだとも考えられます。玲音は自身の脳でNAVIをエミュレートしていますし、人間の脳はその自由意志の拠り所を元々人間の脳が量子論的エンジンであるからとする考えもあります。つまり、NAVIと人間の脳はほぼ等価のものだってことですね。動作速度はかなり違いますがアクセラで加速すれば人間の脳もNAVIと等価になる、というわけです。

NAVIと脳で決定的に違うのは集合的無意識につながっているかどうかだと考えます。wired と weird が重なって混在して見えるのは人間の身体を通してのみわかることです。仮にNAVIが高速な人間の脳と等価であっても単にNAVI同士をワイヤでつなげただけでサーバ上の人格データが勝手に集合的無意識と接続することはないと考えます。NAVIを使う人間が集合的無意識にアクセスできたのはとりもなおさずそのワイヤの端に人間が存在していた為でしょう。

ナイツを失った英利(の人格データ)は wired 上にしか存在していなかったんじゃないのかなと思えます。それじゃもう神にはなれませんよね。身体で感じられない限り神にはなれないという意味です。英利自身はせいぜい人間の作った wired 上に寄生することによってのみ遍在する存在、あくまで空想の神に似た存在になれたに過ぎないと考えていたと思います。本物?の神になるつもりもなれるつもりもなかったようです。もしも全人類の精神がひとつになり意識が覚醒するような事態を引き起こすことになればそれは神かなぁという期待はあったと思いますが、それでも人類すべてが物質文明を放棄して自身の存在が立ち行くとは考えないでしょう。

ちょっと乱暴かもしれませんが逆説的に神が存在し得ないリクツにもなりますね。身体の無い神は非論理的存在ということになりますが、既に神だから非論理的でも何でもいいのかな。果たして、いったん神(神と同じ力持つ非物質的存在)になれ てしまえば「あとは何でも自由自在」ということでしょうか? なんせ神ですから?

OZさん説のように不溶性アクセラによる脳の加速や、集合的無意識との接続により膨大な量の脳を獲得し肥大化し、そこで意識を顕在化すれば神(のような存在)になれる、と僕も考えます。人類が存続し、集合的無意識が存在している限りにおいて論理的存在、存在(受肉化)の可能性を無期限に寄生させておくことができるわけです。しかも巨大な量子論的エンジンを拝借して物質世界を思うがままに再構成できるとなれば創造の神とさえ呼べるかもしれません。

しかし、ここで僕の個人的な唯物的?世界観の限界が露呈してしまいます。世界の物質世界すべてを書き換えられるレインのサーバは最後にサーバ自身を物理的消去(=存在しない世界にしてしまった)後、いったいどこに存在しているの?神になったから非物質的存在なの?そんなのアリなの?という素朴な疑問です。

本来、情報や論理は物質に依存せずに純粋な形では物質世界に存在し得ません。(純粋な情報体という怪物が神林長平のSFに出てきたような気はしますが・・・)じゃあ存在を前提にしている集合的無意識ってのはどこにあるんだよ、という話にもなるかとは思いますが、僕の勝手な思い込みでは、人間の脳の物理的領域のうち本人に利用可能な領域が意識領域、随意には利用不可能な脳の領域が無意識領域で、脳の無意識領域は全人類がつながっており全人類でひとつの仮想サーバスペースを共有し、そこから創造力とかリビドーとか色々引っ張り出して使っている、とか考えてます。(本当はこの世ではない場所、冥府とかそういうのが集合的無意識のある場所なのかもしれませんが、生きている魂も死んだ魂も行き着く先は物理的な人間の脳の中でしかないと勝手に思うのです・・・接続経路という意味では異次元的な接続(*)を想定しないといけませんから結局はどこにあっても一緒かもしれませんが、苦し紛れにカードのSFのフィロテック結合みたいなものと考えておきます・・・。)
(*) lain 世界ではシューマン共鳴ファクターがまさにそれでした。うっかりしてました。フィロテック結合みたいな異次元接続は考えなくていいのかも。そうすると経路も含めて唯物的に解決可能、ですね。

さて、lainという作品中では、この集合的無意識に意識を顕在化するというプロセスの具体的実行方法案として脳内のニューロン数に匹敵する全人類規模の意識の接続によって統一意識が覚醒し得るという仮説を提示していますね。全人類の精神が統一し、ひとつの意識となることはあっても、精神のみの存在となるわけではなく、外見上は人間の身体が失われることもなく今まで通り活動/繁殖を続けている可能性もあると僕は考えます(社会性昆虫のような状態を想像します)。

実際の作品のラストでは、シューマン共鳴ファクタを実装したままのプロトコル7が全面採用されたという様子ではありませんし、もちろん玲音はこのような意味で全人類的な神にはなっていません。そもそもが神を造る計画であり、玲音はその素地となる世界の姿を実現する為のアプリケーション(全人類の脳内の意識と無意識の境界を破壊し無意識接続域に意識領域を組み込む)であったとも考えられるわけですが、実行を拒絶し計画が頓挫した以上神は生まれていない、と考えられます。この場合の神とは、物質同様に壊れる力を持ち時間軸上にリニアに存在し続けながら無限の存在である、といった意味合いです。(既に生物は世代交代や拡散によって無限の存在であるのかもしれませんが自己意識は不連続ですから。)

身体とは壊れるものです。一面を見れば存在する力を失っていくようにも思えますが、逆に言えば壊れる力を持ち、壊れる力を放ち続けているとも考えられます。この壊れる力こそが時間軸上にリニアに存在をつなげさせている力であり、その力を持たないもの、壊れないもの、不死のものは時間軸上にある一定の範囲で存在する力を持たないのではないでしょうか。壊れる力を使い果たしたとき、存在は消滅するのです。時間軸上にある一定の範囲でリニアに存在し続ける力を失ったとき、それは一瞬の存在であり、人間から観測してどこにでもいるので見かけ上永遠になるに過ぎないのです。(電波なこと言ってスミマセン)なんか抽象的で感覚的な説ですが核エネルギーとかも似たようなものではないでしょうか。物質=エネルギーとかと同様に、物質≒情報+壊れる力、としてください。壊れる力を失った物質は純粋な情報、つまり他の物質に依存している間だけはリニアに存在するか、またはいつでもどこにでも遍在する存在になるのです。

最終的に玲音はリアルワールド上に身体を置かなくても人の集合的無意識上、過去または現在または未来で預言という非物質的存在として存在できているわけですが、いつかどこかで受肉化しない限りリニアに実在できない虚ろな存在とも言えます。遍在するとはどこにでも存在する可能性だけを持ちます。「どこにでもいる」とはすなわち「どこにもいない」の意です。不適当な比喩かもしれませんが、もう死んでしまったとわかっているけれど感情的にはまだここに生きているような気がしてならない人、まだ生まれてきてはいない人、もしくは、明日出会う筈の人、過去に出会ったような気がする人、そんな感じの身体を伴わない存在です。まあ、僕も含めてlainのファンのみなさんの心の中にいるわけですが。

(99.3.19 青野さんちに投稿 / 99.6.30 補足)





冥王計画ゼオライマー

[作品の評価]

ロボットという無敵のアイテムが軍の一兵器システムまたは大量生産された規格工業製品であるといった "リアルな" 描き方を押さえていない作品はハズカシーっていう往時の頭悪い雰囲気を一切無視し、まるでガンダム(量産ロボット兵器のルーツは正確には新造人間キャシャーンだが)が存在しなかった平行世界でのロボットアニメの洗練の果てといったものを具現化してみせた作品である(弾劾鳳とかそういう線じゃなくて)。

パッケージとして80年代後半のあの時期氾濫していたロボットOVAに埋もれた感もある地味目の作品ではあるが、ゼオライマーは完成された名作だった。平野監督・會川脚本・森木メカ・菊池キャラが揃って全然地味な作品には該当しない筈なんだけども評価が追いついていない(要するに売れてないらしい)。おっかしいなぁ、各巻毎回毎回、底抜けの爆笑と、お約束のお色気と、やたらめったら豪華な声優陣と、怪獣映画ばりのレイアウトにかっこいいメカ戦が美しい作画で表現され、最後には一本ドラマの筋を通した上で、(劇場版パトレイバーのような)スパーンというカンジの気持ちいい感動のラストを迎えたこのOVAが・・・。

おにりんさんのページのアニメレビュー内には冥王計画ゼオライマーの項がある。たった 4話の中に八卦衆という敵の設定で各人にドラマを置いて内容を詰め込み過ぎ、しかも各話のつながりが唐突に飛んで見えるということだろう(ビデオリリースのリアルタイムで視聴していた限りでは気にならなかったが)。主人公である秋津マサトと二重人格の木原マサキのドラマへの掘り下げ方が足りずもったいなかった、という監督の述懐は送り手として当たっている面はあるが、受け手として集中力を要し想像をかきたてられる面もあり、決して瑕疵には当たらない、と僕は思っている。

(99.6.30 改稿)

[印象評、あるいは独断解釈]

ゼオライマーって、決して「野望にとりつかれた木原マサキが必要以上に周到な計画の結果、墓穴を掘って未来の自分に復讐されるマヌケ話」とは限らない。「自分を含む世界の破滅を望んでやまない病んだ心を未来の自分自身によって克服する話」だとも思える。

木原マサキはその破滅的な幻想にとらわれていて、だから世界を破滅させて冥府の王になる=誰もいない世界でしか生きていけない、という結論に至り・・・でもそれを否定したくて、でもできなくて、結論を出さずに(冥王計画を完遂することなく中断するでもなく)幽羅帝と秋津マサトに生まれ変わった。秋津マサトが自分のことを薄汚いヤツだって言ってるけどあれは木原の言葉でもある。他人にとって薄汚いから自分は生きていけない。でも美久が生きていてもいいって言った。それをマサトは信じた(一方、ルラーンは病を脱しかけている同志木原=幽羅帝の心の美しさに嫉妬したのかもしれない)。もう一人の自分を殺す=冥王計画を止めるっていうことを秋津マサトが決断した時点で木原マサキとしてはもういい。マサト=木原自身がそういう結論を出せたんだから。「世界が破滅しないためには僕はここにいてはいけない」と「僕がここにいてもいいためには世界が破滅しなくてはいけない」の究極の二択だったのが、「僕はここにいてもいいし世界も破滅しなくていい」という当たり前の結論が出せた(幽羅帝も同様だろう)。それだけでいい。その後の閃光はその結論が少し遅かったための結果に過ぎない。

木原マサキは「鉄甲龍にいたら殺されるとわかっていた」と嘯きつつ、亡命してさっくり殺されたりして、額面通りに受け取ると至極マヌケだが、実は本音は逆の方が自然に思える。つまり木原マサキは自分の(遺伝上も人格面でも)コピーである八卦を組織の最上幹部に据えることに成功した時点でこのままいったら自分自身が冥王になるというビジョンが確実にみえてたってことだ。敢えて日本政府にゼオライマーをもって荷担せず、放っておくだけで幽羅帝(木原マサキの一方のコピー)が冥王となるのは確実だからだ。いみじくも日本政府のゼオライマーと鉄甲龍の激突を、木原マサキは世界を賭けたゲームだと言った。黙っていれば威力の差は歴然としていて勝ちが転がり込んでくるのに、なぜ敢えて均衡した「ゲーム」という状況を作り出したのか。
幽羅帝の言う「先の皇帝」(木原マサキ逃亡後に自然死?)ってのが謎だが、あの組織の人たちって物語開始時点で八卦とルラーン以外は侍女しかいない。侍女ってのは 2タイプのアンドロイド(監視用と戦闘用(*1))にしか見えない。木原マサキはルラーン同様に雇われ技術者の立場から影で鉄甲龍の組織を完全に掌握していた。木原マサキの日本亡命は明らかに自殺(帆場瑛一@パトレイバーの行動とまったく同じ)だった筈だ。
(*1)あのねーちゃんたち双鳳凰(八卦ロボの輸送機)の操縦するは、敵基地に楽々侵入してパイロットさらってくるはと万能ぶりを見せてましたね。あの世界では無敵やし、八卦ロボも彼女らが操縦してたらさすがの天のゼオライマーも危なかったね(爆)。

で、結論から言えば木原マサキも帆場瑛一も自分の死後、予測していた運命とは違う結果になったんだけど、それはひょっとして五分五分で本意だったのではないか?自分が救われるには破滅の誘惑に屈するしかないけど「彼らの存命中にはいなかった誰か」に止めてもらいたかったんじゃないのか。そう考えると帆場瑛一の 666 の識別プレート(*2)とか、幽羅帝や秋津マサトに残された破滅を望まない自分自身の意志(*3)、といったものは、帆場や木原の最後の心の「揺らぎ」として自然に納得できると思うのだが。

(*2) パトレイバー劇場版の箱船パージのシーン、台風の最中カラスがあの場所に逃げ込んでくる可能性があることは計算できた筈である。サブコントロールが放棄されていたことを考えるとあらかじめ窓は割っていたのかもしれない。映画の主人公である篠原巡査がかなりの尺の止め絵で考え込むシーンだ。早計にトラップと決めつけるカヌカと違ってこの作品世界ではおそらく帆場に次いで頭のいい彼はいったい何を考えさせられたのだろうか、と思って見るとなかなか興味深いシーンだと思う。
(変な例えで申し訳ないが、上家に爆牌を切られて、この捨て牌にどんな意図があるのか、鳴くべきか、鳴いたらどうなるのか、では何を切ればいいのか、じっと考え込んでいる・・・・そういう風に見えなくもない)最終的には「やっぱ警官は人命尊重貫いとくもんだ」と嘯く(それだけとは思えないが)篠原巡査のこの判断によって箱船パージは成功するのだが。

(*3) 完全に木原マサキと同質のものにすることはできた筈だが、秋津マサトは木原マサキの予定通りにマサトの人格を消すことが「できなかった」と吐露している。本当に木原マサキの誤算だったのか、というと疑問の余地はある(物語の根幹を揺らす解釈の読み替えではあるけど)。木原マサキの意識下の要求によって、敢えてノイズの混入(普通の少年として育てられたという記憶)に起因するイレギュラーを期待していたのではないか。


帆場や木原は傍目ではほぼ完璧な人間だけど、「世界全体の自分に対する悪意」という「心の闇が生んだ幻想」に自分の力で対決し、この世界で生きていく、という誰もがある程度はもっていないと生きてらんないような人間に最低限必要な能力が欠落した人間だったのではないか。だから破滅を回避するために迷わず最善を尽くす篠原巡査(彼や現実のお巡りさんたちにとっては当たり前のことなんだと思う)や、ゼオライマーの "メイ・オウ" の前で全てを受け入れるように両手をひろげる幽羅帝(彼女はこの行為で運命を書き換えた。このシーンが僕は一番感動した)とかを見ると、帆場や木原は死んでしまったけれども最終的には救われて、僕自身もまた救われる。彼らは破滅の賭けに悲劇的に負けたのではなくて勝ったのだと思えるからだ。

パトレイバーの場合は完全に他人の善意に依存した計画だが、ゼオライマーでは生まれ変わった二人の木原マサキ、という点でまたもうちょっと違う解釈もできる。
幽羅帝や秋津マサトが木原マサキの存在を否定しているとは言い切れない。彼女らは木原そのものであり、そのことを知って自分自身の存在を一度は呪ったけれども、最終的には生前の木原が放棄した木原マサキでもある自分自身を認めた。
「僕はなんて薄汚いんだ」僕とは木原マサキである。そしてその現実に直面しても崩壊することなく木原マサキである自分自身を受け入れて、もう一人いる自分(マサトにとっての幽羅帝、幽羅帝にとってのマサト)を殺す、という現実の危機に対する行動を起こすことができたのである。
確かに、木原マサキの肉体に独立して発生した幽羅帝と秋津マサトの自我が協力して木原マサキの自我という共通の敵に勝つための唯一の解は自身の肉体の破滅しかなかった、という解釈がストレートではある。しかし、あの二人は「わたしはわたしであって、木原マサキではない」という考え方には決して至ってはいないと思う。そもそも否定することができない事実だからだ。自己欺瞞によって "木原マサキではない自分" になれると考えたわけじゃない。
「あなたは、本当に美しい」(ルラーン)「あなたの中に綺麗なものがあったからそれを生んだのよ」(氷室美久)という言葉は木原の生まれ変わりである自分に気づいた後にその自分に対して贈られたものであり、その言葉を信じられなければあの二人は現実世界に生まれ出でることができなかった筈だ。僕は木原マサキでもあるけれど、ここにいてもいい。すべての破滅か自身の存在か、その結論を先送りにした木原マサキは生まれ変わって初めてそれに気づいた。僕たちは木原マサキとして生きていく、そして生前に自分が残してきてしまった破滅の計画を止めなければならない。
あの最後の "メイ・オウ" の閃光は自己否定による絶望と破滅の悲劇ではなく、木原マサキの生きていく決意に満ちた希望の輝きである。「完」

(99.6.30 改稿)





DTエイトロン

[出会い]

CXオンリーの深夜アニメ、TX深夜ならば CS の AT-X で補完できるものを・・・関西者の僕は羨望のまなざしで東の空を見上げていた。決して人気がある様子ではなかった、ブレイクする気配も無く消え去ったアニメのようだった、けれど信頼のおける人々からこぼれる言葉の端々に現れては、僕に意味不明の焦燥感を抱かせていた。僕はそいつを見なくちゃいけない。それが DTエイトロンだった。放映後しばらく経ってもビデオソフト発売の気配もなく、主題歌 CDS だけを手に入れてそのカッコよさに惚れ、永遠とも思える月日が過ぎ去り、ある日突然 LD BOX がリリースされる。想い出のアニメを買うのとはワケが違う、内容に何の保証もないアニメの LD BOX、そんな風に衝動買いしていいものなのかい、そんな囁き声を振り切って僕は予約を入れ、そいつを手にした。嬉しかった。

[回り続けるディスク]

稀にみるヒットだった。それなりに興味を惹かれても途中で疲れてしまって、テープは溜まってるのにいつのまにか見なくなってる作品が他にはいくつもある。ソフトを買ってさえ全部に目を通すとは限らない。しかし DTエイトロンは違った。

予告やアイキャッチでの本編抽出が抜群に牽引力があって見続けるモチベーションを失わせない。予告はもうミスリードの嵐、これぞ予告のお手本って感じがした(同じ監督の「聖ルミナス女学院」は全編に渡りミスリードが自己目的化したような作品で、その点はちょっと通じるかもしれない)。To Heart は割と毎回満足してるのに、予告見てもあまり次回に期待が膨らまないのと対照的だ(どうせあっちは見たまんまだし?)。番組最後の映像(所謂ウエザーブレイク直前カット?)も妙に笑えた。自我が芽生えたのかメイの風呂場覗いて鼻血たらすエイトロン(笑)、「頭文字D」風のも(モトネタはほとんど知らないけど)意味無くて笑えた。

OP曲の鳴り終わり残響音で本編が始まるところはカッコイイ!けど、(#1以外?)毎回ED曲入り直前で本編BGM がぶった切られたような感じなのは・・・スパっと終わって潔いのかもしれない?音楽シオシオで終わってる回もあったけど。

全体的に、lain が感覚的な登場人物、有機的な展開、ロジカルな作者を感じるのに対して、DTエイトロンは ロジカルな登場人物、場当たり的な展開、感覚的な作者、という印象。もちろん各個人のそれなりにロジカルな思考は作者の手になるものだからこの印象はおかしいのだが。描きたいもの以外には無頓着な監督で、リアリティ云々言われると困るけど、認識する現実は後者な感じと思ってるしな。

[そしてツボを押される]

個人的に一番感動できたのはナインツが「歌が聴きたかった」ことを思い出すところ、シュウの両親の映像(それを急いで持ってきてくれるクラスター)、リセットが切れて泣きはじめる山口勝平(それを無音画像で目撃するシュウ!)、完璧にオレのツボだった。そしてサントラに収録された例の "歌" は自動的に無限リピートでオレをノックアウトした。

シュウのフラットさは、実は妙に共感できる。位置づけとしても。シンちゃんみたいに抑えつけてるわけじゃなく、やたら怒ったり笑ったりを強要する他人には遥かな隔たりを感じるけれど、僕に感情が無いわけじゃない、あなたはなんとも思わないのかと他人に感じることも、他人から僕がそう思われていると認めることもある。

キャラ的に、lain だとそこらの人間と同じだけの骨格や肉感や肌触りを執拗に追ったのに対し、どうも抽象的概念としての登場人物という感じもする。ただ、コイツはこんな性格の奴という明確な文字設定集合体キャラとはまったく逆のごくナチュラルでアバウトな意外性があって楽しい。手探りみたいな感覚で。序盤から、ほとんど最後の方まで「銀河漂流バイファム」前半みたいな各人物間の距離感がある。どれだけ馴染んだ仲でもバイファム後半みたいな浪花節にはならない、逆に初対面の緊張感が持続してる感じと同時に初めから相手に心を砕いてた感じが生きてくると思う。

[不安と解消]

諸国漫遊が(個々の話ではなく先が見えずにパターンが続くことが)ツラかったり、スアンが拾えたことってただの僥倖だったんじゃ・・・とか思ったり、アモーロートで暴れるあたり(生きてたとわかったらすぐ殺されるローディ、思い切った設定なのに盛り上がらなかったのが惜しいもうひとりのシュウ、声優違うのに声紋同じシュウ(笑))が乱暴でちょっと先行き不安になったり、ゼロのビジュアルがテキトーでショボかったり、ジェネシスが最初から箱船をまったく想定してなかったのが彼らしくなく思えたりしたが・・・最後には決まった。

エイトロンは「モルダイバー」みたいな擬似分子?の絶対無敵装甲とか設定的に面白かったけど、自意識の芽生えも決して主題的では無いし、声も(情けなさが好きだけど)誰なのか不明だし(笑)、最後まで犬的?なイメージを貫いた。てっきりエイトロンの DT が鍵だと思ったのにそうでなかったのは・・・意味不明の存在が突如助けの手を・・・みたいな予定調和にならなくてよかったのかな、と今は思う。

[最終回]

最終回初見の印象は「魔法のステージ ファンシーララ」最終回の喪失感に近いものだった(lainの最終回にも通じる)。またいつか、会えるといいね、で終わるのが、お前らはいいかもしれんけど視聴者のオレとしては・・・というやりきれなさ。甘い果実を得た安寧よりもずっと心踊る瞬間があった、というのは認めるけれど、変に感情移入するより観客として微笑ましく見ていた視聴者にとってはもう1分、意味を限定(歪曲)する蛇足と批難されようとあと1シーン欲しかったというのは偽らざる欲求なわけであり。(だからこそもっかい見ようとか思うんだが)

直接関係ないけど「ガンダム0083」OVA版の蛇足的エピローグ、周りでは評判悪かったけど個人的には作者の善意と悪意がないまぜになってて先行公開された劇場版と同じくらい好きだったんだがな。もちろん劇場版のように "無い方が完成度が高い" という事実に異議を唱える気はない。

イルカ、ねえ。ジェネシスの明かす確率も視聴者の都合のいい方に解釈ができるし(シュウの納得も不明瞭だし)5割はシュウだとして、水棲人間達はどうなんだろ?シュウ個人は「自動的」にそっちに移行しちゃうんじゃ、とか、やっぱ素直に思いますよね。シュウ本人でなくシュウが望んだ状況としてのフィアの直感ならパイルに保存されたイルカのデータの実体化か?という即物的なのもなんかしっくりこないし。感傷的な象徴、絵合わせ的印象以外にハマらない気もしてくる。リクツは全然わからない、けど不思議と感覚的にオッケーなのはなぜだろうか。

データニアの子供達が生き延びたい理由って考えてみたらミームじゃなくってジーンで、確かに獲得形質もジーンに刻みつけられると考えるのには個人的に(学者じゃねえから)何の圧力も無くやぶさかでないけれど、そんな先のことより今この一瞬のオレ、連続的な自意識の保存、いかにデータが変容しようとも "ここ" にある喜びや痛みの主体の継続こそが僕にはもっとも重要に思えるので、自分と等価の複製を作って自分を消すことにあまり意義を感じない・・・ほんとのほんとに価値があるのは(存在の実体は)"ただのデータ" の方かもしれないけれど。

最後のメイの "希望" と "諦観" の混合比はわからない、本当にわからない。しかし何回か見ているとまさにラストカット(CM 明けの「おわり」) に最も相応しいような気がしてくる。もし仮に全員そのままに生き延びてフィアとも再会して、地球も生き返って、そんな夢のような未来があったとしても、シュウとメイにとってはあのやりとりこそがもっとも甘美で充実した瞬間であった気がする ・・・ そういう瞬間を感じる為だけにオレは生きている。


作為的な盛り上がりの無さは徹底している。しょっぱなから脱走して "将来の仲間" と運命の出会いの直後、ぼーっとしててつかまってリセット・・・ライフサイドに行ってもしばらく自然人の暮らす街で過ごしてマインドセットを変える展開かと思ったら追い返される。作為希薄の現実世界でなぜ計算された物語世界より面白いことがあるのか(個人が思いつかないような突飛なことが起こり得るからだとかいうことではなく)、劇的と評価する基準の修正というか、僥倖を僥倖とも思えず甘受してしまう物語の欺瞞の拒絶によって、当たり前の因果関係の上に現れた事象のありがたさをわかる気分にさせる。

「その確率は 0.007% だ(嬉しそう)」「地球はまた生き返るんですね!」ジェネシスにしてみればどうせ駄目だろと思いつつ計算してみたら意外にもゼロじゃなかったので「ほお、ふむ」と驚いてたところにシュウに聞かれたので、喜べ、ゼロじゃないぞと言うつもりで自信満々に答えてあげたらシュウは誤解してぬか喜びを、というケース、またはまったく可能性が無いというのでなければシュウにとっては十分だ(ジェネシスの気分と同じ)というケースも考えられる。それは定かではなく測りかねるけれども、いずれのケースでも "いい感じ" には違いない。


[蛇足的印象]

メイのレオタード風パンツが素直なアニメ的分割ラインでいい。以前はヒタタレ or ホットパンツ風の切り取り方とかもっと食い込ませ系腰骨表現が趣を変えて "リアル"(笑)で新鮮だった時期もあったが(漫画でいうところのパンツのシワ表現的エポック)、今はこういう直な水着フィギュア的分割ラインに目が行く。

そう言えば、シュウとフィアって雅史とあかりだな。フィアも序盤で髪型後期モードにチェンジするし。

(99.4.28 尾島さんちに投稿 / 99.6.30 改稿)


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