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Subject: 
          マルチ論の感想です。
    Date: 
          Fri, 12 Mar 1999 11:51:19 +0000
    From: 
          Ashihara ibuma 
      To: 
          archeus@icn.ne.jp




イヴュマーです。ご無沙汰です。

ワタルさんのTo Heartのマルチの記事を拝見しました。

ネット上のイカニモ君の例に洩れず僕もリーフ信者です。
エロゲー自体大好きですし、THはSSの真似事もしましたし(笑)。

さて、(人間の)肉体を純化した物語であるとの論旨ですが
個人的にちょっとひっかかることがあったので適当に雑感を。


非人間の人間性というアプローチはオタク文化では基本(*)で
なぜならそれはオタクは「生物的に人間として生まれ社会的に
人間として育てられたからといってそれを人間とは認めない」
人種であるからで、人間の人間性を自明とする風潮に懐疑的で
あるからです。

(*)手塚作品でなく最近の作品の例としては、「アンドロイド
アナ MAICO 2010」「セイバーマリオネットJ」「勇者警察
ジェイデッカー」「キューティーハニーF」等を挙げます。


>さて、私達の世界では、人工知能がどんなに発達しても、それは人間の知能が作り出したものであ
>って、人間とはどこまでも区別されます。しかしアニメの世界では、その差異を解消することが可能で
>す。それでもロボットと人間との差異は、完全になくなりませんでした。この差異を真正面から問うこと
>になったのが、マルチの物語ではないでしょうか。

ここでワタルさんの論旨は少し飛躍します。すなわち「>アニメ
の世界では」という、あるいは好意的を装ったよそ者のエクス
キューズを持ち出してロボットの知能と自我の存在という決定的
な差異を混同し、無効化している点です。そしてワタルさんは
その差異を肉体に求めました。心は既にある、という風な棚上げ
として。もちろん主旨は性交シーンの是非を問うことにあるのは
承知していますが性急に過ぎるように見受けます。

果たしてTo Heart世界のロボットと人間の違いというのは肉体で
しょうか。逆に、見た目や息遣いや触り心地は人間そっくりであり、
そのそっくりである点が問題になるほどではなかったでしょうか。
To Heart世界の住人の多くが、ロボットには肉体はあっても心が
無いと考えているのではないでしょうか。

(↑逆にこのへんを突っついて、マルチの同級生(主人公は上級生です)
のマルチに対する扱いの無頓着さと、現実世界におけるマルチ熱狂者
の膨大な実数を対比して、そこにエロゲー独特の自己都合的世界を
指摘することができるほどです。あと市販型マルチがあのマルチでな
いことにはエロゲー独特の必需性があります。独占と共有という全く
相反する欲求が円滑に満たされる巧妙なトリックポイントですね。)

「>その差異を解消することが可能です」そうでしょうか。マルチには
美しい心しかありません。「美しい」とは製作者である人間にとって、
人間自身の心のうち自ら醜いと感じている部分を除いた心です。そんな
ものが「人間」でしょうか。主人公の高校に試験投入された時点では、
マルチは人間ではなかったのです。役目を終えれば消えてしまう覚悟です。
実存の剥奪に対する恐怖が希薄であったと言えます。それがいつか主人公
との交流によって、最後の夜の性交によって、自身の存在を失う恐怖を
味わったと考えます。ここではじめていくばくかの人間を獲得したと感じ
るのです。だからこそその直後の葛藤があり、それが僕の感動の中心です。


次に、マルチの性交機能の存在意義ですが、ワタルさんの御説
同様に18禁ゲームだからという究極に外在的なのは論外としても、
肉体の物語としての必然性から性交機能があったとするのもまた
To Heart世界の住人にとって外在的以外の何物でもありません。

(ニュアンスとして主人公が性的欲求によってマルチを抱いたという
のは少し違うかもしれません。それ以前にも「頭をなでる」とマルチ
は幸せになり、最後の夜にもっとなにかマルチに幸せを感じさせる
手段はないかと考えた末の行動であったようにも受け取れるからで、
そのへんがシナリオの苦肉の策を感じさせる一因かもしれませんね。)

性交機能の理由は、家庭で人間に奉仕することを目的として作られた
メイドロボの機能のひとつということでしょう。マルチ班の意向は
ともかくクルスの要求仕様に示されているのではないでしょうか。
本来の目的として、徹底的に使用する人間本位のものであるという
点に留意すべきです。18禁ゲームだから、というのに似てますけど。

(当然上位機種であるセリオにも性交機能は存在するでしょう。・・・
セリオ主観から描いたSSによくあるのですが、同じメイドロボから
見てもマルチは化け物であるという視点があり興味深いところです。
化け物じみて人間らしいという意味もありますし、自我の由来を
オカルティックな存在、人形憑きに求める意見とかもありますね。)

このインタフェイスは、出自としては所定の機能を果たす機構の
ひとつです。そして結果的にマルチと主人公との性交はよく言われ
るようにマルチに対する人間性(肉体性)の付与(人間側からの歩み
寄り)とも考えられますが、人間以上の存在(=美しい心だけを持った
存在)であるマルチが、(自身の一部を醜いと感じている)人間に歩み
寄る器官ではないかと想像します。もちろんこの行為によってマルチ
が人間を獲得したのは事実でしょうし主人公がマルチに人間を与えた
と結論するのも可能でしょうけれども、果たしてこれで人間側に何の
変容もなかったのか、一方的にこちらが相手を人間側に引き寄せたの
かというと甚だ疑問であるのです。

ロボットと人間は、被創造者と創造主という点において神と人間に
なぞらえられます。一般に人間は神より劣ったものとも思われますが
果たしてそうでしょうか。神は自分自身より劣ったものを創造したの
でしょうか。僕は、実は人間は神の美しい部分(と神が思っている部分)
だけを抽出して創造されたのだと考えます。荒ぶる神々は自身の醜さを
呪ってあるいは自滅したのではないでしょうか。そして人間は神に対
する歩み寄りとして荒ぶる精神を獲得したのではないか。そしてその
人間の姿を見るに見かねた神々は仕える主人を失うという最大の不幸を
見舞うと承知の上で人間を自分の元から自由の野に放ったのではないか。
これと同様のことが人間と、その人間による被創造者(ロボット)との
間でも繰り返されるのではないか、マルチを見ているとそう思います。

マルチは亡国の病の種そのものでありながら、かといって彼女の幸せを
願うあまり自らを消し去ってしまうこともその存在の不幸(人間がかつて
神の仕打ちに味わったと同じ不幸)を招くと承知している。今度は創造主
の有り様を変えて共存していくことも必要ではないか、と。マルチは
一方的に人間に歩み寄ってきたけれど、それではただの人間じゃないか、
僕達はマルチの言う大好きな人間のままでいいのか。

(たとえばOVA「キャシャーン」におけるキャシャーンとルナの交流は
既に非人間化した主人公(人間)に対する人間ルナの歩み寄りではなく、
メカニズムであるキャシャーン側からの人間に対する歩み寄りであり、
それ故のエロティシズムであったと考えます。最後に否定されるネオ
ロイドの世界も結局ブライキングボスの「人間性」に根ざしていたもの
であったが故に論破され得るのです。)

実在の人間がマルチのように純然たる愛の対象となることはおそらくない
でしょう。実在の人間がマルチのように自我を備えているかというとこれ
もまた不確定です。僕がそこにあると思えるものにしか自我は存在しない
からです。ワタルさんが実は非常に高度な文章作成プログラムであるとし
ても僕はなんら不思議に思わないでしょう。人間を人間扱いする場合、
単に「ルール」に従っているに過ぎないことが多いのです。この差異が
何であるかがわからないのがオタクの神髄かもしれませんし、ワタルさん
にとっては「何を今更当たり前のことを」と呆れることかもしれませんが。

ぶっちゃけた話、ともすればオタクは「肉体」に否定的です。そのオタクに
対するアプローチとしては lain のように二元論で迫るしかないかもしれま
せん。しかも絵に描いた肉体であるアニメにとって肉体とはもともと排除さ
れた存在であり、lainにおいても肉体の生々しさに若干傾斜した脚本から修
正した完成品の両者肯定に至っています。ゲーム版のブレークスルーも含め
て一般(=非アニメオタク)の客観病に冒されることを徹底して嫌います。
決定的な指向の差異といえるでしょう。オタクはロボット(人間未満)に近い
存在なのかもしれませんね。

庵野氏の発言に対するワタルさんの印象を読んでとくに感じるのですが、
どうもこの人は向こう岸の人なのかな、という疑念です。社会的に正常な
多角形を描く理想人格という幻想の逆差別対象でしょうか。欠落を埋めれば
自分と同じになると勘違いしているような振る舞いに素朴な違和感を抱かず
にいられません。無論ワタルさんのおっしゃられることの方が正しいと理性
的には受け取れる反面でのことですが。


あと、蛇足ですが、

巨大ロボットの肉体性について母胎性を挙げられていますが
巨大ロボットは概ね戦闘用ロボットであり、搭乗者を包み込む
母性と同時に、搭乗者に力強い父性を付与する機能も併せ持って
います。すなわち搭乗者の肉体の延長線上にあると言えます。
(父性と母性を明確に切り離した例には永野護のモーターヘッド
/ファティマが挙げられるかもしれませんね。是非はともかく)

実際の作品での描写を顧みると、スーパーロボットのロボット
プロレスに見られる操縦者の肉体拡大とリアルロボット(笑)に
見られる一機の兵器的扱いに大別されます。(混在してますが)
エヴァのように敢えてロボットアニメのフォークロアを誇張描写
したものの方が希有ですし、第一あれは「ロボット」ではなく
ウルトラマンでしょう。このエヴァから逆算帰結して巨大ロボット
から人間の母親という意味性を読み取るのはいささか乱暴かも
しれません。エヴァ自体をロボットアニメの評論のひとつと
仮定するならば全面的に論拠することになってしまうから。

マジンガーZでロボットは「バカ」になって以降基本的に他者
としての心は無く、快楽装置として特化されていると思います。
逆にロボットに心がある場合、人間とは違って容易に肉体と心を
分離可能な対象として描かれる文脈にあるのではと考えます。
このへんは受け手のバランス次第なので現実が肉体を謳う世界
ならば心を謳っているのでは、というのがオタクでしょう。

肉体という意味性を慮るあまり、たとえばガンダムセンチネル
でのモビルスーツデザインのような「カタチに対する愛」を軽視
する風潮もどうかと思います。肉体と人形は違いますし、人形が
肉体より価値が無いなどとは夢にも思わないのがフェティッシュ
なオタクって奴です。カタチを愛でる行為、というものを偏った、
乾いた行為であると断罪する向きもありますが、もしそのような
発言があれば軽蔑の対象としてよいでしょう。フクザツですね。



あ、そうそう、アニメ版はあかりの視点で描かれるらしいので
マルチと主人公の物語というのは必ずしも表立って描かれることは
ないかもしれません。KSSのHアニメ系の企画でもあるので軽い
Hシーンの有無については微妙ですね。PS版は18禁じゃないので
Hシーンは無しとか、まあ色々ありますけど。


雑文失礼いたしました。ではまた。




Subject: 
             マルチの感想
       Date: 
             Sat, 13 Mar 1999 13:29:51 +0000
       From: 
             Ashihara ibuma 
         To: 
             wataru 
 References: 
             1




イヴュマーです。早速のご返事ありがとうございます。


> 学校に送られたときはマルチは、心のないロボットであったが、
> 主人公との交流によって心を得て、最終的には性交によって、
> 「実存の剥奪に対する恐怖」を感じた。この時点で、マルチは、
> 人間としての生きることの意味を、多少なりとも感得した、とい
> うことになるでしょか。

先の僕の書き方に極端なところがあったのですが、ゲームのテキスト
上で露骨にこのような劇的な変化がみてとれるわけではありません。
転校してきたときからマルチは人間そっくりのとてもいい子でしたし
主人公の見ていないところでの人間や動物との交流、とりもなおさず
生みの親育ての親である人間との交流によって過分に人間らしい人間
として描かれています。一概に心のないロボットというとかなり語弊
があります。誤解を招いたのであれば申し訳ありません。

生物的、社会的に「人間」として扱われている者が必ずしも人間では
ないように、マルチも極端な言い方をすれば、この時点で人間となった
のではないかと少なからず僕は思っている、ということです。
もちろん、この時点でようやくマルチの心の底にある葛藤(使命と実存の
二律背反)が主人公の前にのみ現れたとする解釈も大いにアリであると
思いますし、そのように受け取れるようにも描かれていたとも考えます。

生物的に人間として生まれ、社会に人間として育てられたからといって
人間と呼べるのかどうか、どの時点で「人間」になるのか難しいですね。
「子供」は人間ではないとも言えますし、社会的に大人の筈でも僕のよ
うなオタクが果たして人間かどうかは甚だ疑問です。逆に美しい心だけ
をもった人間というのがいたとして、その人が人間なのかも疑問です。

たとえば恋をすれば人間とか、恋が実って自らのカタワレとひとつにな
った瞬間だけが人間とか、他人の中に模倣子や遺伝子を遺したときが人間
だとか、どれも説得力があり魅力的です。ある解釈では僕は人間だったり
人間でなかったりしますし、まあそれを他人に押し付ける(お前人間じゃ
ねえとか言うのか?)のはどうかという場合があるので難しいんですが。
(とくに個人的には客観病に罹患した人とか何言っても怒らない人とか妙
に首尾一貫した考え方の人って人間とは思えないんですよね。理性が道具
であるのか本質であるのか、どちらも正しいとは思うんですが。)

死を忌避するのは生物的とも言えますが化学機械的とも思えます。
ロボットでも自らの破壊は回避するように作られているでしょう。
その「機能」と自我の獲得の区別はどこなんでしょうね。主観ですか。
自我の存在もその出自は生を指向する為の道具立てのひとつかもしれま
せんが、生物/機械/人間のうち、人間にだけあるものといったら人間の
自我くらいしか思いつかないので、それなのかなあと漠然と思います。

マルチの場合、生物的な意味で言えば心も身体も妹達に受け継がれる
(ことになっていた)のである意味不死なわけです。唯一失うのが主人公
との関係、自己同一的、連続的なワタシです。そこに思い至った瞬間に
これまで実感できていなかった恐怖が呼び起こされ、同時に「生まれも
った使命」といういわば人間的でありながら人間には決してないもの
(人間には生まれてきた理由や生きていく理由というのはありません)
との葛藤が生じます。そこで朝日を受けて輝くマルチの笑顔にはあるい
は人間そのもの、あるいは人間が求めながら得られなかったもの、人間
が生み出すべきだったものさえ感じられます。非人間を通して人間その
ものを浮き彫りにして描く、といった感動はもちろん、それ以上の感動
(それが人間である僕に理解できるのかは不明ですが)さえ感じられるよ
うに思うんですよ。

以前仲間内で、「誰を救うべきか?」が議論の争点になったことがあり
ます。To Heartに登場する女の子達のうち、多くが主人公との交流によ
って救われることになっています。マルチ以外にも深刻な悩みや絶望を
抱えていて、それが主人公によって解決され笑顔を取り戻すというシナ
リオもあります。しかし主人公がたった一度の時間しか選べないという
のであれば果たしてどの子を選ぶべきなのだろうか、というお題です。
最初のプレイではなにげなく接していた女の子達が数度のプレイを経て
校内電波飛ばしまくり状態になるからです。当然マルチも候補に挙がり
ます。マルチは比較的短期決戦なので並行アタックもし易く、逆に自分
が彼女を見捨てるという場合も出てきます。もちろんゲーム中の主人公
にとっては全く預り知らぬことではありますが、校内で何度か声をかけ
ていながらも最後まで行かなければマルチは消えることがわかっている
のです。ここでやや自己欺瞞的ながらも出てきた意見が「主人公と恋に
落ちるまではマルチには自己の消去に対する完全な納得ができていたの
ではないか」というものです。諦観と言えばそうですが、数多くの妹達
を残すことがわかっているのですからいささかも恐怖や苦痛はなかった。
逆に主人公があまりに人間的に接していくことはとても残酷なことなの
ではないか、そもそもそんな「可哀相な存在」を生み出す行為そのもの
がとても罪深いと自分で感じてしまうことなのではないか、それは人間
の子供を生むときも同じであるわけで・・・ああなんかウツウツモード
に入ってしまいますが、そんな感じさえしましたね。
その場の結論としては「琴音かなぁやっぱ」ということになりました。
個人的には芹香先輩も好きなんですが。


> そうならば、マルチは、肉体があったからこそ「実存の剥奪に
> 対する恐怖」を感じることが出来たと言えませんか。つまり心
> だけでは、マルチは、その恐怖を感じることが出来なかった。
> こう思えるのですけれど。もともと、実存思想は、理性主義に
> 対して出て来た思想ですし、この思想の系譜には、身体を重
> 要視する人が多いですから。

身体と心を分けて考えたがる人には僕もなんとなく抵抗がありますが、
だからといってそれに反抗するように身体を謳うのは僕個人はどこかで
イヤなのでしょうね。そもそも現象としてアニメオタクですし肉体的な
セックスよりアニメキャラで精神的にオナニーする方がシビレますから。
体を動かしたり食べたり肌をあわせたりってのにあまりいいイメージが
ない、まあそんなところに境界線があるわけじゃないし、映像や音楽や
クスリやタバコの快楽が精神的なものと言えるわけじゃないんだけど、
稚拙なオタクのイメージとその嗜好としてそういう妙な線引きがあるん
じゃないですか。どっちかっていうと個人の妄想と共同幻想である現実
の線引きと混同して重ねあわせて見ていると反省することも多いけれど。

そもそも実在の人間において身体と心を分離認識するなんて不可能だし、
フィクションであってもあたかもそれが人間にとって可能であるように
描くのは危険が伴うでしょう。ゲーム版のlainでもそれはちょっと注意
が喚起されましたよね。「実存神経症」(?)だと肉体があろうがなかろ
うが「意志と存在、あとはただのデータ」なんですけどね。存在の進化
として手段が目的化した情報子って考え方、さらに人間では脳という本
来制御器官という道具に過ぎなかったものに本質を求めるコンセンサス
が成立して目的化し、ネットという論理的な言葉遊びの世界に沈溺して
いる現状もあるわけで、すーっと消えちゃうのもそれはそれで気持ちよ
さそうだよねとかほざく僕みたいなのと違って「なにがなんでも存在し
てやる」って人達には身体が邪魔で邪魔でしょうがないってのもわかる。
無に帰すことを旨とするからこそ有限の存在である我々というのに僕は
とても憧れるのですが、そういうヌルイ根性がない前向きな人は身体を
否定したいと思っていて、かといって僕は身体のありがたみがよくわか
っていないから積極的に反論する気はない、逆に自分の現状もわきまえ
ず反論してしまうことにも抵抗がある、というところでしょうか。

と自分自身の現状を踏まえた上で、マルチは人間ではなく、したがって
物理的に心と身体を分離することが可能であるという仮定があります。
心だけのマルチの状態は本編では描写されませんが(SSではたまに出て
くる)、マルチシナリオのエンディングシーンのひとつとして主人公が
マルチの身体(と初期状態の心)だけを手に入れるというのがあります。
僕も含めて多くのファンが欠落したマルチの心を希求する瞬間で、そこ
に描かれていないからこそマルチシナリオは心を描くとする論拠になる
と思うのですが、僕自身もワタルさんの考え方と同様にマルチにとって
は肉体の獲得の瞬間でもあると感じてはいます。ただあんまりストレー
トに認めたくはない、それを認める資格が欠落していると思っているオ
タク心理というのもわかって欲しいなあとも思いますね。変なの。


> 不要か必要かという問題よりも、マルチの設定から見たマルチ
> のHシーンの解釈が本来の論旨です。肉体的なものを、いかに
> 脱肉体的に描き出すか、という点にマルチのHシーンの意味を
> 見出しました。

マルチが非人間であること=人間を描く為の選択
・・・基本的にその通りだと思えるのですが、もう少し何かあるカモ。
 「人間以上」って一体何?って言われると確かにそうなんですがね。
 「被造物と造物主」というのも一般的なテーマだと思うんですよ。

マルチの心と身体が分離可能であること=心と身体の不可分を示す選択
・・・まあそうなんですがね。
 でもわざわざ分けられたからには心に純化した物語と考えるのが
 一般的で、そのカウンターとして(のみ)ワタルさんの主張があるとは
 思うんですけどね。その媒体(この場合はアニメ絵のエロゲー)として
 絵に描いた世界の肉体の肉体性に疑念を抱く考えもわかるんですよ。
 あ、媒体っていうと不適当で、実際には客層ですかね。そもそも
 エロゲーを楽しんでやってる時点である意味特殊で、そうした客層に
 対して挑戦的とも言えるし極めて誠実であるとも言えますね。


> 与えられたテキストは絶対的なものとして扱います。
> いわゆる文献学者がテキストを扱うようにです。

リーフ系の2次創作物を精力的に出し続けている友人が言うには、極端な
「リーフ原典主義者」がいて困惑するそうです。無論オリジンの咀嚼と
してはワタルさんと同様彼も(僕も)原典に忠実であろうと努めるのです
が、普通の物語と違ってマルチエンディング(この場合は複数の経緯と
結末を持つ作品(笑))の場合、2次創作物の原典をどのように抽出するか
というのは相当な難題となります。たとえばマルチ以外の女の子をヒロ
インとして描く2次創作物として、そのお話の中でマルチはどういう存在
であるべきなのか。二人以上の女の子と結末を迎えるのは不可能ですが
経過に関しては誰とでも途中までは進むことができるしプレイスタイル
として人それぞれです。ゲーム以降の時間軸ではマルチの場合既に消え
去っているとするのがノーマル解釈ですが混在する世界観の2次創作物も
また楽しい。でもそうすると完全に原典を破壊することになる!・・・
このへんの扱いとしてはどうお考えでしょうか。媒体違いの別バージョ
ンでは完全に独立した別作品として考えることも可能なのですけれど。

ではまた。
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