To Heart 感想

筆者 ワタル


  "Yliaster of Anime" の休止に伴い、イヴュマーさんが感想をくれた該当記事が読めなくなってしまいました。そこで "ノースペシメン" にHTMLファイルで投稿し、掲載してもらうことになりました(ありがとうございます)。

純化されたHシーン(マルチ論)

第四話の諸問題

第五話の青白い子を巡って

  付録 : その他大勢の人々

メール   
投稿 99/5/27   


 

純化されたHシーン(マルチ論)

  ゲームもやらず、テレビもまだ放送されていないときに、知り合いの話を聞いただけで書いたものであったので、実際にプレーした人から見ると、いろいろと問題があったようです。これを切っ掛けに何人かの人と知り合うことが出来ました。アニメにマルチが出てきたらもう一度考え直してみたいですね。

はじめに

  To Heart が四月から放送されます。どんな物語なのか、今からとても楽しみですね。これは、十八禁ゲームがもとになっているそうです。十八禁ゲームの歴史自体、私は全く知らないのですけれども、話を聞く限りでは、To Heart は、Hシーンを見せるためだけではなく、そこに、純愛系ゲームに見られる物語的な要素を加味したゲームであって、十八禁ゲームの歴史の中でも物語性という点で一つの到達点に位置づけられる評価の高いゲームだそうです。
  しかし、純愛的な要素をもたせたために、To Heart というゲームのシナリオには、無理が生じていると聞きました。本来ストーリーとは、端的に言うと、十八禁ゲームであればHシーンに至るためのものであり、純愛系ゲームであればHシーン抜きで愛を成就するためのものであるからです。ユーザーによっては、こうした相互に矛盾する要素を盛り込んだストーリーを一つのシナリオに同居させたことから、違和感を感じる人もいるそうです。私はこのゲームをプレーしたことはないのですけれども、アニメの放送開始が迫ってくると、その違和感が気になりました。
  違和感を生み出す矛盾が最も露呈されているのが、マルチのシナリオだそうです。他の人の話から判断すると、私は、このシナリオの問題点は、マルチの設定が人間ではなくロボットであるということから来ているのではないか、と思いました。某掲示板で、マルチの物語を教えてもらったのは昨年のことです。マルチの話は涙をともなわずには見られないそうです。私はその話を聞いただけなのに、主人公の気持ちを肌で感じることが出来ました。自分の感動を多くの人が語ってくれたからです。アニメ版でも、マルチの話は、最大級の感動を与えてくれることでしょう。アニメを見る前に、マルチの話について考えてみたいと思います。

 

マルチの設定

  マルチは、メイドロボとして人間に奉仕するために製造され、主人公の学校に試作品として使われることになりました。マルチの行動はすべてプログラムに則ったものでしたが、その奉仕する姿は主人公の共感を呼びます。マルチの「美しい行動」は、プログラムを通じてこそ可能となったと考えられますが、主人公は、彼女の行動に「美しい心」をどうしても見てしまいます。もちろん、彼の意識は、彼女がロボットであることを十分に承知しているのですが。
  彼の感情はそれを認めませんでした。この彼の感情は、私達の生活感情と何ら変わるところはありません。確かに、その彼女がロボットであるという設定こそ、私達の世界では経験されないことですけれども、彼は「行動(目に見えるもの)=心(目に見えないもの)」という健全な物の見方に従っています。この見方をわかりやすく説明すると、例えば、喧嘩した翌日の「おはよう」という何気ない挨拶という行動(目に見えるもの)は、お互いの心(目に見えない心)を和ませますからね。行動と心は切っても切れないわけです。
  試作品としての実験が終わる日、マルチは主人公にお礼をしに行きます。この行動もプログラムされているのでしょう。実験が終わると、別の実験のために、主人公と共に過した日々のデータが書き換えられるそうです。これを知ると、彼は、この日がマルチと一緒に過せる最後の日であることを悟ります。そして二人は最後の夜を過します。マルチには性交の機能までついていました。マルチの奉仕は人間一般に対するものだけではなく、男性一般に対しても有効なものでした。ここにシナリオの解釈上の問題点が発生します。
  マルチ以外の娘は普通の人間です。彼女達は生きた身体をもっています。純愛物語の中で描かれたとしても、生物的な性(セックス)を否定することは出来ません。けれども、マルチは、ロボットという設定であるために、生物的な性が欠如した女性であることも可能性として考えられます。つまり、ジェンダーのみの女性という設定も可能であるということです。ところが、実際のシナリオでは、主人公がマルチに生物的な性の魅力を感じることと、マルチに実際に性交機能があることとが、繋げられています。性交機能の存在は主人公の要求に応えるためであるかのようです。この場合主人公とは、同時に、十八禁ゲームのプレーヤーでもありますから。
  マルチの設定は、純愛物語の純愛性(この場合の純愛性とはとりあえず性交の欠如ということにしておきます)を追求できる特殊なものでしたが、敢えてその路線は選択されませんでした。どうしてでしょう。十八禁ゲームであるという販売戦略に則ったのでHシーンは不可欠であった、という理由で、マルチに性交機能が付与されたのかもしれません。この理由が正しいのであれば、ユーザーによっては、マルチに性交機能を付ける必要はなかったのではないか、という疑問も当然起こります。この疑問を提出する視点からマルチのシナリオを見ると、このシナリオは、純愛系十八禁ゲームとしての矛盾が露呈していると解釈されます。他方、純愛性と十八禁ゲームのゲーム性との折り合いがうまく行ったものとして、長崎志保、神崎あかりのシナリオがあげられるそうです。この二人は普通の身体をもった人間です。To Heart 関連のサイトを巡回してみると、確かにこの二人の人気はシナリオの成功にあるようですね。
  これまでは、マルチのシナリオを批判的に見てきました。十八禁ゲームであるにもかかわらずHシーンは不要であるとする意見が多数聞かれるのも、To Heart が、シナリオの路線で発展してきた十八禁ゲームの一つの到達点であったからでしょう。純愛性とは精神的な愛を、十八禁とは肉体的な愛を求めたものであると言えるなら、まさに矛盾した愛の演出だったわけです。けれども、両者の愛が矛盾とは感じない、あるいは、その両者の存在が矛盾ではないところにこそ、真の愛があると言えませんか(臭いセリフで恥ずかしい)。
  それゆえ、以下で、私は、マルチの性交機能の意味を、Hシーン不要論を唱える人とは別の視点から探ってみようかと思います。与えられたものを批判的に見ることも大切ですが、与えられたものを与えられたままに受け入れて、その意味を探ることも、また一つの批判的な物の見方であると、私は信じます。まずは、ロボット一般の意味を探ります。

 

ロボットの意味

  この節では、ロボットの意味を、人間との差異という視点から探ってみたいと思います。一般に、人間的な意志と理性をもったロボットは、人間とは何かという問いを視聴者に突きつけることになりますが、マルチに限らず、最初のテレビアニメの主人公となったアトムにも同じことが言えます。小さい子供達は、そうした描写から、人の心とは何かということを朧げながら自得していくのでしょう。それゆえ、ロボットというものは、人間の在り方を写し出す鏡の役割をもっていることになります。
  では、アニメに描かれたロボットと人間の差異はどこにあるのか。両者は、意志と理性をもっている点で共通しています。現実の私達の世界でロボットに人の心をもたせることは、実質的に不可能ですけれども、アニメの世界ではそれが可能です。そうだとすると、もはやその違いは身体にしかありません。ところで、現実の世界では、コンピューターが出現したとき、この発明品が人間の在り方を問い質す契機になりましたけれども、この場合は、人間の知性に対する問いでした。人の思考能力の再考に迫られたわけです。計算したり推論したりする働きは合理的な理性の機能の一つにすぎませんが、それでも理性一般は人間と動物とを隔てる唯一の指標であったので、コンピューターの出現は、人間の存在そのものに、これまでにはなかった視点から問いを投げかける事件となりました。つまり、その時代では、理性を問うことは、人間の在り方そのものを問うことであったのでしょう。
  ただし、アニメの場合、問い方において現実とは全く逆の方向に進みます。例えば、巨大ロボットを例にして考えてみましょう。巨大ロボットアニメの主人公は、ロボットの中に取り込まれて操縦し、すなわちロボットと一体化します。それゆえロボットは、いわば「自分の身体」として扱われることになります。ロボットの体内に入るという行為が何を意味しているのかは言うまでもなく、ロボットの身体そのものは、操縦者である主人公を庇護するための母体としての役割を担っています。
  ロボットの体内に入る行為が体内回帰を意味するとしても、これは、主人公の視点から見られた解釈です。では、母体という意味づけ自体は、ロボットにとって何を意味するのでしょう。上で述べたように、アニメのロボットの描出の背後には、人間とは何かという問いを読み取ることが出来ます。この問いが問いとして有効であるのは、ロボットが人間化されることによって理解されているからです。人間にとっての他者、この他者の中には、自然もあれば、人間によって作り出されたものもありますが、人は、こうした他者に人間的な姿を投影します。例えば、もともと非人間的な自然であった風景に画家達が注目したのも、そうした風景に人間的な意味合いを読み取ったからですが、これと同様に、私達は、ロボットに人間的な意味合いを読み取っているわけです。巨大ロボットの場合、ロボットとは、庇護してくれる身体、つまり、人間(子供)を生み出せし者(母親)であると言えます。
  ここで注目すべきは、その暗喩のことではなく、ロボットが主人公の身体と化していること、そして、その身体に意味づけがなされていることです。私達の現実世界でもロボットは、見た目には人間の形でなくとも、ある程度なら人間の身体機能を担うことが出来ます。それゆえ確かに、その道具は身体の一部、あるいは身体そのものであると言えますけれども、所詮、道具の使用者にとって道具とは、不用になれば捨て去ることの出来る代物です。道具と身体とは、それらが担っている意味合いが全く異なるからです。巨大ロボットも、身体の延長として見られただけであるなら、道具と何ら変わるとことがありません。しかしその意味合いが母体であるところから、道具としての身体ではなく、生きている身体としての意味合いを獲得します。この身体を「肉体」と言ってもかまいません。
  意志や理性をもったロボットがよりいっそう人間に近づくためには、ロボットの身体が肉体としての意味合いを獲得しなければなりません。巨大ロボットは母体としての意味合いをもっていました。等身大ロボットはどんな意味合いをもっているのでしょう。もはや言うまでもありませんが、以下続けて考えてみます。

 

マルチの物語(1)

  以下では、マルチの物語における性交の意味を探りましょう。第一に、マルチにどうして性交機能がなければならないのか。そして第二に、マルチの物語の物語性はどこに求められるべきなにか。この二つの論点を巡って考えます。
  ロボットの開発史は、人間的な動きを追求した歴史でした。「機械仕掛け」という言葉が通用していた時代は、「人間のように動く」ということを機械技師達は目指していました。しかし、ある時代から、特にコンピューターが登場して以来、「人間のように考える」ということが技術者の目標となります。面倒な膨大な計算を機械にやらせるだけでなく、認知して判断することまでも機械にやらせるのです。ところがアニメの世界では、どこまでも想像することが可能であるために、設定上、理性や感情の点で人間と全く変わらないロボットを編み出しました。しかも、人間と等身大のロボットです。大きさが人間と同じであるということは、人間と社会的に交わることも可能であることを意味します。この点が巨大ロボットと大きく違う点です。
  そのため、等身大ロボットの行動には、社会性を読み取ることが出来ます。アトムの存在はその典型です。『鉄腕アトム』には、アトムが人間から差別される描写があります。それを見た視聴者は、ロボットとは何か、人間とは何か、両者の共存の可能性はあるのか、と自問自答するように促されます。人間でないロボットを人間化することで、アトムの存在は、人間の人間たるゆえんは何かという問いを投げつけることになりました。それにしても、アトムはどうして差別されたのでしょう。
  アトムは「人間のように動く」ことも出来ます。「人間のように考える」ことも出来ます。アニメでは共存の問題へとスライドさせてしまいました。確かに、そこに、『鉄腕アトム』という作品の時代的な制約を見ることが容易に出来ますけれども、今ここで論じている問題はすでに描写されています。どうして差別されたのかと言えば、いくら人間のように動いたとしても、考えたとしても、人間であるとは認められないからです。差別者は、ロボットと人間の差異はロボットが生き物ではないという点にある、と本能的に思ったからではないか。アニメではこの差異を突き詰めることはしていませんが、それをしっかりと描き出しています。身体の差異がどれほどの差別を生み出しているのかは、私達の現実の世界や歴史を見れば言うまでもありません。
  さて、私達の世界では、人工知能がどんなに発達しても、それは人間の知能が作り出したものであって、人間とはどこまでも区別されます。しかしアニメの世界では、その差異を解消することが可能です。それでもロボットと人間との差異は、完全になくなりませんでした。この差異を真正面から問うことになったのが、マルチの物語ではないでしょうか。主人公とマルチは、マルチに性交機能があったおかで、精神的にも肉体的にも交わることが出来ました。最後の日の交わりは、その二つの交わりが一つの行為として表現されたものです。そこに、矛盾を超えた真の愛の姿を読み取ってもかまわないではないかと思うのですけれど、どうでしょう。まさに性交機能のおかげで統一的な愛を成就できたのだと言えます。
  マルチの物語は、ロボットとの共存を探ったアニメ作品から見れば予想だにしない事態が起こる可能性を教えてくれます。すなわち、ロボットがいくら人間化したとしても、それはロボットにすぎないと、確かに私達の理性は了解しているにもかかわらず、ロボットを人間として扱うように人の心は強制される、ということです。言い換えれば、ロボットの人間化は擬似的なものであって、それゆえロボットは人間ではないと、頭の中では理解していても、それでも、心ではその現実を否定する方向に働くのです。しかも、性交機能を付けることで、心と体を統一した仕方で人間全体に作用することになります。ロボットに心を向けた人にとって、ロボットは人間です。子供を産んで子孫を残すことだけが人の生き方ではないとするなら、子供を産めなくても性交が出来るマルチは、人間のパートナーとして完璧です。
  巨大ロボットは母親でした。自分の身体がすっぽり入ってしまうほどに大きなロボット(例えばエヴァ)の中で主人公は庇護されます。等身大ロボット(例えばマルチ)は恋人でした。等身大ということは、ある意味では肉体的に対等であることを意味します。結局、アニメで描かれたロボットの人間化は、意志や理性の付与によってなされているのではなく、身体の意味づけによってなされていることがわかります。性交機能のおかげでマルチは、同じ等身大のロボットであるアトム以上に人間化されていると言えます。しかし、マルチに性交機能まで付けることが必要か不必要かは、さらに再考しなければなりません。

 

マルチの物語(2)

  次に、マルチの性交機能の是非について物語との関連からその可能性を探ってみましょう。すでに述べたように、十八禁ゲームであるためにHシーンを入れなければならないという理由は却下されます。確かにこれも理解の一つの在り方ですけれども、そのような仕方で理解することは避けたいと思います。物語の外部にその理由を求めたことになるからです。ここでは、物語の内部におけるその行為の意味を探ります。すなわち、マルチの物語は、マルチにその機能があったおかげでどんな効果を得たのか、という問題です。
  この機能が役立ったのは、マルチが主人公にお礼をしに出かけた日のことでした。この日は、マルチの実験期間の最後の日です。実験が終われば、主人公と過したこれまでの思い出はすべて、マルチの記憶から消されてしまいます。ここで二つの論点を呈示したい。第一に、マルチとのHは一回きりの出来事であったこと、第二に、記憶の消去によりその出来事の事実性が、希薄となる危機にさらされている、ということです。
  まずは、第一点についてです。他の女の子とであるなら、たとえ確率的にはどんなに低くても、もう一度Hする可能性が残されています。しかしマルチとはその時そこでの一回だけのHです。出来事の一回性に私達は何を感じるでしょうか。一回だけなのは、マルチがロボットであったがゆえの「定め」でした。試作品として送り込まれたわけですから、マルチとして存在できる期間は、初めから決まっていました。この必然の流れの中に結末が用意されていたことを思えば、私達は、そこに「運命」という言葉を思う浮かべてもよいでしょう。この流れに抵抗するところにその言葉の味わいがあるからです。
  二点についてです。記憶の消去は、「定め」に対する抵抗の無力さと空しさをよりいっそう知らしめます。主人公にとって、一回だけのあの出来事は何だったのか。自分の記憶の中だけにしか存在しない出来事とは何なのか。マルチとの最後の日の出来事が思い出の中で永遠化されて行きます。実験終了とはマルチの死です。マルチの死を受け入れることは、死んだマルチを思い出すことです。思い出の中だけの存在となってしまったマルチに、主人公は、あの出来事で知ったマルチの肉体の面影を求めることでしょう。肉体的な感覚の存在こそは、単なる想像ではないことの証だからです。また、主人公の体も、マルチのことを覚えているはずだからです。今ではいなくなってしまったマルチを愛しているからこそ、あの出来事が存在し続けるとも言えます。かけがえのないマルチが自分の前から永遠に消え去ってしまったという感情が、一回きりの出来事に意味を与えます。その意味を私達は受け取って、主人公と気持ちを共有することが出来るのです。量産型のマルチは、かけがいのないマルチが永遠にいないことをますます強く感じさせるだけのものです。
  二つの論点は、マルチに性交機能が物語において重要な役割を果たしていることを示しています。ロボットという特殊な設定のおかげでマルチの死の演出が可能となりました。Hシーンを入れたおかげで、主人公は、死んだマルチのことを体で覚えていることも可能となりました。しかしマルチとの出来事は思い出の中でのみ存在します。このように言えるなら、マルチの物語では、Hそのものが純化されていると理解できるのではないか。そうだとすると、マルチとのHには、最高の純愛性が付与されていると言っていいのではないか。肉体をここまで純化した物語も希有なのではないか、私はそう思います。

 

終わりに

  では、回顧しましょう。上記の考察は、結局のところ、マルチのシナリオにはHシーンが必要か不必要かという問題に収斂されます。不必要であるとの意見にも肯首せざるをえない論点が多くありますが、私は、与えられたテクストを全面的に受け入れた上で積極的な理解が示せないものかと思って、Hシーンの意義を探ってみました。まず最初に、ロボットという設定に注目し、巨大ロボットに見られる論点を等身大ロボットにも見出せると考えて、ロボットは主人公にとって機械ではなく肉体であるということを示しました。その肉体がマルチの物語で果たす役割を探り出し、性交機能によって可能になった出来事の、主人公にとっての意味を明らかにしました。
  マルチはこう言います。「寂しい気持ちも恐い気持ちもなくて、あるのはデータだけなんです」。データだけのロボットにこんなセリフが言えるでしょうか。心(Heart)は目に見えないものですけれども、行動や言葉を通じて目に見えるものとなります。そうして見えたマルチの心を、主人公はしっかりとつかみます。私はゲームを知りません。あるページの論考と、そこの掲示板で語られた熱き想いを読んだだけです。けれども、それらの話をうかがって、私は、マルチというキャラをイメージせずにはいられませんでした。勝手に空想されたそのイメージを今語ってみたのですが、いかがでしたでしょうか。作品を見ないで作品について語るのは反則です。しかし、反則を承知の上で語らせる何かを、私は、ネット上の多くの友人から受け取ったのだと思っています。
  最後に展望です。そのそもマルチという等身大ロボット、その系譜をたどってみると、手塚作品に登場するロボットに行き着くそうです。アトム以降の作品には、性の対象として見られた少女ロボットが結構描かれているようです。このようなロボットは一つの流れを形成しているようなので、それらのロボットを巡る物語を分析すると、これまで見えなかった何かが見えてくるにちがいありません。そうしたら、マルチに、何か新しい意味を発見することが出来るかもしれません。
  ゲームのマルチについて述べてきましたけれども、アニメのマルチはどんな感動を与えてくれるのか、本当に待ち遠しいですね。

99/3/12  

  参考文献 : JUNさんの記事(To Heart 論)、同所の掲示板の過去ログ、がんちゃんさん


 

第四話の諸問題

 

  第四話は複雑な話ではなく、大まかな流れでは一致を見ていると思われるのですけれども、それぞれの場面を一つ一つ理解しようとすると、自分と他の人との理解の仕方や感じ方に違いがあることに気づきます。その違いは見た目以上に大きかったりすることもありますが、実際はどうなんでしょう。以下では、四点を巡ってその違いを明確にしました。

*

葵と浩之の関係について

  アニメを見てどこに関心が集中するかは人それぞれなんですけれども、自分にとって思いがけない方向に関心を向けている人と出会うことがあります。第四話を見て関心の向かうべき方向は、浩之が葵(あるいは同好会)からどうやって手を引くかという点にあると言う。ゲームをしたかしないかにかかわりなく、同好会発足後の浩之と葵の関係に興味が向かないはずはないからであると。
  しかし、私は全くこうした見方をしませんでした。第四話は、人によってはどのような形にもまとめられるでしょうけれど、浩之が葵の成長をサポートし、好恵がその成長を認める話である、と言ってもそれほど大きく外していません。ゲームでは、葵と浩之の関係がどの程度に描かれているのか知りませんが、葵は、もしかしたら、アニメのように浩之に後押しされるのではなく、完全に彼に依存してしまっているように描かれているのでしょうか。そうだったら、ゲームは、葵の成長物語ではありません。まさに浩之に攻略される(ための)物語でしょう。アニメを見た限りでは同好会の運営は、浩之なしでもやっていけるように描かれてませんか(私はそう受け取りました)。現に、宣伝効果としての試合は成功を収めており、数人の部員を確保できたわけですから、実質的にも葵一人でやっていけることが示唆されています。また、葵が同好会運営に当たって浩之に精神的に大きく依存するであろうとも思われません。
  では、浩之が葵と大いに関係をもっていた一週間で何が変わったのでしょう。一週間の練習で、これまで全く歯が立たなかった相手にかなうほどの技を身につけられるとも思えません。そうしますと、葵において変わったところとは、試合に挑む心構えでしょうか。すると、浩之の役割は、精神的なバックアップですね。しかし葵の物語では、いわゆる「主筋」に相当する話は、葵と好恵を巡って組み立てられています。おそらくゲームでは、浩之と葵を巡って話が組み立てられていることでしょう。したがって、浩之が葵からどう手を引くのかに関心があるというのは、ゲームを引きずった理解に由来するのではないか。私にはそう思われます。

*

葵の同好会メンバーの勧誘

  第四話で葵が勧誘していた時期について言えば、春ならまだしも、秋の衣更えの季節に同好会を作って新入部員を勧誘するのは時期を逸している、と言われても仕方のないのは当然です。これも、理解の一つの在り方として認められるでしょう。しかし、だからと言って、そのことがそのまま物語の作りの荒さに繋がるとは言えません。描かれた状況が常識からして変であると、すなわち、普通なら四月にすることなのに10月に校門で部員勧誘は変であると、そう判断することは、確かに、可能であもあるし、間違いでもありません。しかし、その一方で、まず第一に物語を受容する手順として、そうした時期に勧誘をする葵の姿に、彼女の追い詰められた状況を読み取る、という理解もあります。同好会を結成する当たって、たとえ不適切な時期であったとしても、生真面目な葵にとって実行するしか選択の余地はなかった、そう私は解します。
  案の定、部員はあつまらない。誰一人として興味を示す者はいません。昼休みの葵の演説を聴く人もいませんでした。この段階で視聴者は、誰も葵に興味を示さないということが強調されて描かれていることに気づくでしょう。もし四月であったらどうでしょうか。何人かは興味をもって近寄ってきたかもしれません。しかし、葵の物語の展開として、誰一人として葵のすることに関心を示さないということが重要です。この意味で、10月に葵が勧誘活動をしていた(あるいは作家によってそうするよう設定された)のは、理に適っているのです。つまり、誰も関心を示さないような状況設定が必要であったということです。無関心でなかったのは、浩之ただ一人だけでした。

*

シナリオの展開の速度

  葵が綾香を慕ってエクストリームに転向しようとしていることで、好恵が「なんとなく裏切られた気分というか寂しい気分」(引用)をもっていたことが理解できる描写は、第四話には描かれており、それゆえ抜け落ちていません。そのような好恵の気持ちはアニメだけからでも十分わかります。好恵の最初の登場の仕方とそれに対する葵の対処の仕方、さらに、特にマーベルバーガーでの葵のセリフから、わかるのではないかと思います。
  好恵と葵、葵と芹香の関係をその背景まで正確に把握できないとしても、物語を楽しむ程度には理解できます。しかし、好恵に魅力を見出したとき、彼女と綾香との関係に興味が湧くのは自然なことです。好恵の魅力が鑑賞者の関心を刺激したがゆえのことです。もちろん二人の関係は第四話の話と直接かかわりはないので、取り上げられることはありませんけれども。

*

好恵の物語

  好恵に注意が向くのは、綾香の提案を受け入れたという点だけにあるのではありません。直上の記事のコメントで、私は、そのことだけしか触れていませんけれども、第四話の感想ではもう一つ触れています。それは、葵が自分に立ち向かってくるときの好恵の気持ちです。第四話に好恵の物語があるとすれば、試合中の好恵、特に葵に押されてまくっているときの好恵の描写がクライマックスであると言えるでしょう。
  好恵が以前知っていた葵より、今目の前にいる葵は格段に腕を上げ、強くなっていたことでしょう。でも、好恵は、試合中に葵のそういうところに驚いたのでしょうか。私が思うに、我武者羅になって挑んでくる葵の姿に驚いたのではないか。おそらく、葵はこれまで好恵に対して今回ほどにはっきりとした態度を示したことがなかったのでしょう。格闘技でなくても実力に大きな差のある勝負をするとき、格上の者は、格下の者が抱く恐怖心を心得ています。かつて初心者の頃は自分もそうだったのですからね。相手のそうした心を見透かしているわけです。
  試合中のこうした好恵の心の動きがあるからこそ、試合後に彼女が葵に言ったセリフが生きてきます。葵が自分らしく闘うことで、好恵は葵の本当の気持ちを受け取ることが出来ました。好恵のセリフは、葵が最も待っていた言葉であると同時に、試合中に葵から感得したものに対する返礼なのです。葵の物語としては前者の見方が、好恵の物語としては後者の見方が感動の焦点となります(そこが焦点となるかどうかは人それぞれでしょうけれど)。私の感想では、葵の物語が好恵の物語として再構成された形となりました。というのも、私が好恵に関心をもったからです。けれども、他の人の感想を読む限りでは、これほど強く好恵に執着した人はいなかったようです。

*

  ゲームでは、好恵に魅力を感じるような話にはなっていないらしいですね。それはともかく、ゲーマーの人達の記事を読む限り、好恵だけでなく、岡田、吉田、松本と呼ばれる彼女達(第一話で委員長をいじめた三人組)はファーストネームで呼ばれていません。攻略の対象から外されているからなのでしょうか。アニメ版ToHeartでは、攻略外の女の子達も魅力的に描かれたら素晴らしいと思うのですが、どうでしょう。

(注)   引用はここから。上記はこれに対する返答です。

99/5/7   


 

第五話の青白い子を巡って

 

  第五話には気になるシーンがありました。とは言っても、いい意味ではなく、逆の意味で気になったシーンです。アンカーの代わりを無理やりやらされたような「青白い男の子」が出ていました。確かにこの男の子のシーンは嫌でしたね。見たときにはそう感じたものの、その直後の浩之の疾走の感動でつい忘れてしまっていました。しかし、このシーンについてあらためて問い質されると、それがますます嫌に思えてきました。それでちょっと考えたことを以下に書いてみました。

 

青白い子を描き出した問題点

  なぜ嫌な感じがしたのか。ある人物を目立たせるために、その人物より明らかに劣る人物を登場させたからです。このような描き出し方は好感がもてません。わかりやすい例を言うなら、別の人を貶してある人を誉めるというやり方も、好ましい誉め方ではありませんね。こうした誉め方には、誉めた人の「嫌らしさ」が見えてしまいます。貶された人の立場は一体どうなるのでしょう。子供を誉めるに当たって、片方を誉めて、もう片方を貶すという比較優劣による誉め方は御法度です。第五話で青白い子を出したことは、それとどこか共通したところがあるのではないかと私には思われます。
  いずれにせよ、青白い子を出したことの「嫌らしさ」を敏感に感じた視聴者がいたとしたら(私はそれほど敏感ではなかったですけど)、そうした視聴者からは、浩之の走る姿がどのように見えたことでしょう。じつは、青白い子も浩之の走りを見ていたはずです。この子はどんな気持ちで彼の走りを見ていたのでしょう。もっとも、アニメに出てくる人物ひとりひとりの気持ちを、アニメの鑑賞において推し量る必要はありませんけれど。
  この子はアンカーの代わりをするように頼まれました。見るからにアンカーには向かない子です。ここで第一話のエピソードを思い出しませんか。第一話では、保科智子が委員長として登場しました。席替えの方法を巡って協力的ではないクラスのみんなを束ねなければなりません。彼女は適任であるかのに見えますけれども、クラスの雰囲気から、委員長という役割は、強制的に智子に割り当てられたのではないかと推測されます。実際どうなのかはわからないまでも、少なくとも、そう推測させるようなクラスの雰囲気であったことは確かなのです。
  そこへ来て第五話では、アンカーの代理を頼まれた男の子は、アンカーとしての期待を裏切ることがはっきりとわかる子でした。まさに、保科に委員長をやらせたクラスは、そうした子にアンカーをやらせようとしたのです。もし人材不足でなかったとしたら、走れる人はみな逃げ、断り切れなかった彼だけが走るはめになった、ということになります。浩之、雅史、あかりをどう描こうとも、これでは、彼らのいるクラスは明るい学園生活の場となっていません。非協力的なクラスの雰囲気は、第一話から首尾一貫していると言えますけれど。
  確かに、第五話は、自然な描写を求めるならば不自然な描写が目に付くという話であったと言われても仕方のないところなのですけれども、それ以上に論難されるべきは、青白い子の登場であると言えないでしょうか。なぜなら、この描写に、私は、既述したように、子供を誉めるに当たって片方を貶して片方を誉める人のもつ「嫌らしさ」と何か共通したものを感じるからです。
  浩之は青白い子と代わりました。相手を何気なく手助けするという、これまでの浩之の行動パターンからすると、彼に走るように促した動機を、「困っている人に手を差し伸べる」という話にもっていったほうがよかったかもしれません。与えられた話をまずは受け入れてそこから意味を引き出すという、私が固執する作品への接し方からすると、「〜のほうがよかったであろう」という感想は言いたくないのですが、今回はそれもやむをえません。
  じつは、ToHeart第五話のこの部分と全く同じ感想を抱いた作品があります。それは水色時代です。この作品も日常を描いたものとしては秀逸の部類に入るでしょう。作家の意図がアニメ作品にどの程度反映しているのか私にはわかりませんけれども、作家自身の証言によると、そこに出てくる女の子はよく見かけるような子として描かれ、他方、男の子は理想的な存在として描かれたようです。このような証言を聞くと、どうしても触れなければならない作中人物が八王子君です。彼の設定および描き方ついては以前述べたこともあるので同じことは繰り返しませんが、今論じているテーマと関連するところだけ述べるなら、この八王子君も、ToHeartの青白い子と同じ役割が当てられているのです。
  八王子君は、成績優秀で努力家です。北野深雪の憧れの人でした。しかし、見た目にはその彼と正反対の山田君が登場します。八王子君と山田君は対比的に描かれているのは誰もがわかる通りです。作者は、この山田君の素晴らしさを目立たせるために八王子君を引き合いに出してきました。八王子君の役割は山田君を引き立たせるためだけであったと言えます。彼は、徹底的に嫌味な人物として描かれました。このように描くこと自体は非難されるべきではないですけれど、水色時代という作品が理想的な男の子を描いたと言えるのは、この八王子君を除いた上でのことである、という点が問題なのです。
  八王子君の描き出し方には、やはり上述の誉め方に見られるような「嫌らしさ」を感じざるをえません。本来、成績だけで人を見てはならないというのを描き出すとしたら、成績のいい人を登場させておいてその人を人格的に貶めるという仕方以外の仕方で描き出さねばなりません。あるキャラを引き立てるためだけに、マイナスイメージのキャラを持ち出してくるという手法は、日常を意識的に描いたアニメ作品であるとしたら、なおさらいっそう避けねばなりません。
  もっとも、八王子君の場合、解釈の仕方によっては救いの道もあるにはあるのですけれど。水色時代の八王子君は、表層的な行動のみが描かれています。ですから、彼が本当は深雪のことをどう思っていたのか、それを知ることの出来る手掛かりは視聴者に与えられていません。八王子君は、もしかしたら視聴者にすら気づかれないように、自分の気持ちを押し殺していたのかもしれません。彼女のことを想っているがゆえに突き放すような言動をとってしまい、そうした表面的な言動のみが描かれたとしたら、確かに水色時代に描かれたままのキャラとなることでしょう。けれども、八王子君をこのように捉えるのは、あくまで深読みがあって可能となる解釈です。与えられたテクストから素直に解釈すると、多可子(=水色のキャラ)の言っていたように、彼は「嫌味な奴」という言葉がぴったりの子です。
  第五話の青白い子と水色の八王子君に触れることで私が問題として取り上げているのは、片方を誉めるためにもう片方を貶す誉め方、あるいは、これと類似したやり方で物語を盛り上げる手法のことです。私は、この二人に与えられた役割に共通したものを見ます。厳しい指摘は他の人に任せて、積極的な意味だけを物語から引き出すつもりで、私は感想の記事を書いてきたのですけれど、それも出来ないようです。さらに第五話について述べましょう。

 

青白い子を選んだクラスと浩之

  では、別の面から第五話を見てみます。浩之のクラスはダントツで優勝争いをしていたわけですから、人材不足であったとは考えられません。ということは、上述したように、適任者はみな逃げたということになります。断り切れない彼だけが走るように強要された。けれども、浩之が走るように決心した動機は、そうしたクラスの雰囲気とは無関係なところに設定されています。作中人物の造形とは、体格や運動能力、性格や趣味、付合っている友人などを設定することだけではありません。活動する場所の雰囲気を創造することも、人物造形の作業の内に入ってくるであろうと思われます。だとすると、クラスの雰囲気は、浩之を描き出すための要素の一つであると言うことが出来ます。
  ここで注目したいのは、クラスの雰囲気を描くということはその他大勢の人々を描くことである、という点です。理緒が浩之との出会いを語ったとき、理緒の語る言葉の中には、まさに「その他大勢の人々」の有り様を示唆する言葉がありました。浩之はそうした「人々」とは違っていました。だからこそ理緒の心が動いたのは言うまでもありません。葵が部員の勧誘を行っているときも、「人々」が描かれていました。その中で関心を向けたのは浩之ただ一人だけです。
  以前、この「その他大勢の人々」を描くことが何を意味するのかについて述べたことがあります(「その他大勢の人々」参照)。それは制作者の側から言われたもので、今ここで論じていることと直接繋がるものではありませんけれども、多少の手掛かりとなるものはあります。それによると、その他大勢の人々に付きまとうのは「人間不信」です。群集を丁寧に描き出すことは、人間不信と闘うことだそうです。他方、カレカノでは、その他大勢は白抜きで描かれていました。作中人物にとって彼らは無意味な存在だからです。つまり、これは、人間不信をそのまま描き出したとも言えます。
  以上のことを参考に ToHeart に目を転じてみます。第一話で、席替えをするのに非協力的なクラスメイトの中から、浩之だけが立ち上がって委員長を手伝いました。第四話では、葵が懸命になって勧誘するも、無関心であった生徒達の中から、浩之がただ一人関心をもちました。両者のケースには共通点がありますね。すなわち、浩之の行動は、その他大勢の人々の中から「超え出る」行動として描かれている、という点です。人間不信と常に共にあるその他大勢の人々の中に、浩之のような、それとは正反対の人物がいるということ、つまり、ヒロインにとって、群集に対する不信を打ち消してくれる人物として浩之がいるということです。
  浩之の行動についてこのように解釈できるなら、彼の行動は人間不信との闘いです。それゆえ彼の行動は、不信な群集の存在と対置的な関係にあると考えられます。しかし第五話では、浩之本人が物語の主人公としての役を与えられました。つまり、これまでの浩之の行動のような意味づけが出来なくなったと言ってよいでしょう。でも、もし、第五話の話の組み立て方として、浩之がリレーのアンカー走者と「なる」のを、その他大勢の人々の中から「超え出る」という意味づけによって描き出していたとしたら、成功したのではないかと思うのですけれど、どうでしょう。そうなると、青白い子を使えばその「超え出る」意味づけを上手く演出できたかもしれません。ヒロイン達は、そうした彼の行動を見逃しはしないでしょう(と思うのですが)。

 

終わりに

  今回は、青白い子についての問題を考えることによって、浩之の行動の意味づけをこれまでとは別の視点から探ってみました。浩之を彼の内面において理解するのが難しかったので、それなら別の方面から、すなわち、「その他大勢の人々」との関連で彼の行動に意味を与えてみたわけです。そうしますと、第一話で見せた岡田、松本、吉井の三人は、その他大勢の人々を代表していることになります。ファーストネームが与えられなかった理由も、そこに求めることが出来るかもしれません。つまり、この三人は「脇役」ではなかったのです。これに対して好恵は「脇役」でした。この脇役については別のときに触れます(ホントか?(笑))。
  第六話までしか放送されていませんので、上の解釈は暫定的なものですけれども、以後の展開でどう補強されるのか、あるいは訂正されるのか、あるいはまた破棄されるのか、楽しみですね。

99/5/15   


 

彼氏彼女の事情第五話のその他大勢の人々

  カレカノ第五話では、重要な人物以外の周辺の人々に色がありませんでした。製作現場の人の声を聞くと、どうしても製作の危機的状況が反映したものであると思われてしまいますが、でも、感想サイトを見て回る限り、おおむね、好意的に受け止められているようです。そうした見解によると、雪野から見れば有馬以外は無意味な存在なので、それゆえそれを白抜きで表現した、ということだそうです。
  私もそう思っていました。ところが、その見解とは少し異なった見方ができることがわかりました。最近、宮崎駿関連のサイトを巡っているのですが、その中に、今回のケースのようなその他大勢の人々の描写について触れている記事があったのです。その記事は宮崎さんへのインタビューの記事でした。記事は、http ://www.yk.rim /~rst /rabo /news /intav01. html(執筆者叶精二氏「もうモラトリアムは赦されない─宮崎駿さんインタビュー─」) です。まずは、群集を描く意味について宮崎さんの考えを見てみましょう。

  インタビューが、『もののけ姫』における群集シーンの作画の大変さについて話題が移ったときのことです。宮崎さんは、群集シーンは面倒なので描きたくなかったと言ったのですが、続けて以下のように述べました。

ぼくらの中には人間不信がものすごくあるから、その他大勢の人間に対する蔑視と言うか、「いなくなった方が楽だ。描かなくていいや。」という感情があるわけです。

  この引用中では「人間不信」と「蔑視」という言葉が注目されます。宮崎さんの言う「人間不信」の意味ですが、実例を挙げてわかりやすく説明してくれています。その「不信」とはつまり、満員電車に乗って、どうしてこんなに人が多いんだよ、と感じるときの「うざったい」気持ちだそうです。この気持ちには複雑な構造があって、それは、逆に相手の立場から見ると、自分もそうした群集の一人であるということを自覚している点です。群集としての他人に向ける「蔑視」は、自分にも他人から向けられているのです。これでは、不信になりますね。宮崎さんは、「都会に住んでいる人たちは、特にそうですね」とも言っています。ようするに、「都会風の気分」と言えるでしょうか。
  さて、『もののけ姫』ではそうした気分にどう対処したのかを宮崎さんは語ります。その言葉も引用しましょう。

そういう自分の中の不信感を、ただ野放しにするのは楽なんだけど、━つまり群集シーンを描かなくていいから楽なんだけど、そういう感情に乗っかって行くのをやめたから、面倒臭いけどちゃんと最後まで行こうと思ったんです。

  この引用から、彼がどうして群集を描いたのか、ということがわかります。彼の誠実さの現われてあると理解することもできるでしょう。聞き手の方(記事の執筆者)は、群集の描き方に関する話題に入るところで、「人間不信と闘って無名の群集を描き切る」というサブタイトルをつけています。宮崎さんの主張はこのタイトルに凝集されています。無名の群集の徹底した描出は人間不信との闘いだったんですね。群集を描くことにそんな意味があったなんて驚きました。
  宮崎さんのスタンスはこれでわかりました。では、もう一方の庵野さんの場合はどうなんでしょう。宮崎さんは、自分の方法を庵野さんの方法と対比させながら述べているので、非常にわかりやすい言及内容となっています。その前に、 宮崎さんの言う群集蔑視の感情をもう一度確認しますと、それは、制作者の側から言えば、「[群集は] いなくなった方が楽だ。描かなくていいや」という感情だそうです。悪意のある言い換えをすれば、「重要でないなら手抜きしちゃえ」ということにも繋がるでしょうか。宮崎さんのそうした感情の言及に対して聞き手の方は、「みんな殺してしまえば楽だというような」と応じました。まさに聞き手のその応じた言葉に答える形で、庵野さんの作品への次のような言及があるのです。

「(新世紀)エヴァンゲリオン」なんて大胆不敵でしょ。「お前、全然(人間を)出さないな」って庵野(秀明監督)に言ったら、「いや〜、ぼくの視野の中に人間って入っていないんですよ。」と正直に言っていましたけどね。

ここの一節の意味は明らかです。宮崎さんの立場からすれば、庵野さんは人間不信の感情を野放しのままにしているように見えるのでしょう。引用文の「正直に言っていましたけどね」という部分に、宮崎さんの気持ちは表現されています。
  「ぼくの視野の中に人間って入っていないんですよ」、この言葉の意味を理解すれば、手抜きとも受け取られかねないカレカノ第五話の白抜き演出の意図がわかるかもしれません。では、「ぼくの視野」って何なのでしょう。そこで言われている「人間」の意味は何なのでしょう。宮崎さんに従えば、それは「群集」を指します。しかし、それが群集のことであったとしても、「群集」のイメージが二人の間で一致するであろうとは考えられません。結局、庵野さんの念頭に実際に何が思い浮かべられていたのかはわからないのです。庵野さんの言葉として引用されてはいますが、その言葉の意味は宮崎さんの文脈の中に入ってしまっているので、庵野さんの言葉をどう理解したらよいのかは、インタビューの記事からだけでは依然として不明です。
  その言葉はあまりに遠い。宮崎さんが庵野さんの言葉を引用し、聞き手の方が文章化し、そうして初めて私の手元に届いた言葉なので、もとの意味からかなり離れていることも推測されます。もっとも、エヴァとカレカノはもちろん別の作品ですので、もとの意味がわかったところで、カレカノの白抜き演出についての問題がすぐに氷解するわけではありません。でも、他の監督さんであったら、そのような演出にはならなかったであろうと考えられるなら、その言葉を参考にすることは無駄にはならないと思います。
  雪野から見れば他人はどうでもよいのは確かですが、そのどうでもよいということをどう演出するのかは、監督次第です。どうでもよいからどうでもよいように演出することにした、と言えるのでしょうか。実際どうなのかはわかりませんが、たとえそうであったとしても、そういう思い切ったことができる理由はちゃんとありそうです。

98/11/6