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To Heart 感想 筆者 ワタル "Yliaster of Anime" の休止に伴い、イヴュマーさんが感想をくれた該当記事が読めなくなってしまいました。そこで "ノースペシメン" にHTMLファイルで投稿し、掲載してもらうことになりました(ありがとうございます)。 メール |
ゲームもやらず、テレビもまだ放送されていないときに、知り合いの話を聞いただけで書いたものであったので、実際にプレーした人から見ると、いろいろと問題があったようです。これを切っ掛けに何人かの人と知り合うことが出来ました。アニメにマルチが出てきたらもう一度考え直してみたいですね。 はじめに To Heart
が四月から放送されます。どんな物語なのか、今からとても楽しみですね。これは、十八禁ゲームがもとになっているそうです。十八禁ゲームの歴史自体、私は全く知らないのですけれども、話を聞く限りでは、To
Heart
は、Hシーンを見せるためだけではなく、そこに、純愛系ゲームに見られる物語的な要素を加味したゲームであって、十八禁ゲームの歴史の中でも物語性という点で一つの到達点に位置づけられる評価の高いゲームだそうです。
マルチの設定
マルチは、メイドロボとして人間に奉仕するために製造され、主人公の学校に試作品として使われることになりました。マルチの行動はすべてプログラムに則ったものでしたが、その奉仕する姿は主人公の共感を呼びます。マルチの「美しい行動」は、プログラムを通じてこそ可能となったと考えられますが、主人公は、彼女の行動に「美しい心」をどうしても見てしまいます。もちろん、彼の意識は、彼女がロボットであることを十分に承知しているのですが。
ロボットの意味
この節では、ロボットの意味を、人間との差異という視点から探ってみたいと思います。一般に、人間的な意志と理性をもったロボットは、人間とは何かという問いを視聴者に突きつけることになりますが、マルチに限らず、最初のテレビアニメの主人公となったアトムにも同じことが言えます。小さい子供達は、そうした描写から、人の心とは何かということを朧げながら自得していくのでしょう。それゆえ、ロボットというものは、人間の在り方を写し出す鏡の役割をもっていることになります。
マルチの物語(1)
以下では、マルチの物語における性交の意味を探りましょう。第一に、マルチにどうして性交機能がなければならないのか。そして第二に、マルチの物語の物語性はどこに求められるべきなにか。この二つの論点を巡って考えます。
マルチの物語(2)
次に、マルチの性交機能の是非について物語との関連からその可能性を探ってみましょう。すでに述べたように、十八禁ゲームであるためにHシーンを入れなければならないという理由は却下されます。確かにこれも理解の一つの在り方ですけれども、そのような仕方で理解することは避けたいと思います。物語の外部にその理由を求めたことになるからです。ここでは、物語の内部におけるその行為の意味を探ります。すなわち、マルチの物語は、マルチにその機能があったおかげでどんな効果を得たのか、という問題です。
終わりに
では、回顧しましょう。上記の考察は、結局のところ、マルチのシナリオにはHシーンが必要か不必要かという問題に収斂されます。不必要であるとの意見にも肯首せざるをえない論点が多くありますが、私は、与えられたテクストを全面的に受け入れた上で積極的な理解が示せないものかと思って、Hシーンの意義を探ってみました。まず最初に、ロボットという設定に注目し、巨大ロボットに見られる論点を等身大ロボットにも見出せると考えて、ロボットは主人公にとって機械ではなく肉体であるということを示しました。その肉体がマルチの物語で果たす役割を探り出し、性交機能によって可能になった出来事の、主人公にとっての意味を明らかにしました。 99/3/12 参考文献 : JUNさんの記事(To Heart 論)、同所の掲示板の過去ログ、がんちゃんさん |
第四話は複雑な話ではなく、大まかな流れでは一致を見ていると思われるのですけれども、それぞれの場面を一つ一つ理解しようとすると、自分と他の人との理解の仕方や感じ方に違いがあることに気づきます。その違いは見た目以上に大きかったりすることもありますが、実際はどうなんでしょう。以下では、四点を巡ってその違いを明確にしました。 * 葵と浩之の関係について
アニメを見てどこに関心が集中するかは人それぞれなんですけれども、自分にとって思いがけない方向に関心を向けている人と出会うことがあります。第四話を見て関心の向かうべき方向は、浩之が葵(あるいは同好会)からどうやって手を引くかという点にあると言う。ゲームをしたかしないかにかかわりなく、同好会発足後の浩之と葵の関係に興味が向かないはずはないからであると。 * 葵の同好会メンバーの勧誘
第四話で葵が勧誘していた時期について言えば、春ならまだしも、秋の衣更えの季節に同好会を作って新入部員を勧誘するのは時期を逸している、と言われても仕方のないのは当然です。これも、理解の一つの在り方として認められるでしょう。しかし、だからと言って、そのことがそのまま物語の作りの荒さに繋がるとは言えません。描かれた状況が常識からして変であると、すなわち、普通なら四月にすることなのに10月に校門で部員勧誘は変であると、そう判断することは、確かに、可能であもあるし、間違いでもありません。しかし、その一方で、まず第一に物語を受容する手順として、そうした時期に勧誘をする葵の姿に、彼女の追い詰められた状況を読み取る、という理解もあります。同好会を結成する当たって、たとえ不適切な時期であったとしても、生真面目な葵にとって実行するしか選択の余地はなかった、そう私は解します。 * シナリオの展開の速度
葵が綾香を慕ってエクストリームに転向しようとしていることで、好恵が「なんとなく裏切られた気分というか寂しい気分」(引用)をもっていたことが理解できる描写は、第四話には描かれており、それゆえ抜け落ちていません。そのような好恵の気持ちはアニメだけからでも十分わかります。好恵の最初の登場の仕方とそれに対する葵の対処の仕方、さらに、特にマーベルバーガーでの葵のセリフから、わかるのではないかと思います。 * 好恵の物語
好恵に注意が向くのは、綾香の提案を受け入れたという点だけにあるのではありません。直上の記事のコメントで、私は、そのことだけしか触れていませんけれども、第四話の感想ではもう一つ触れています。それは、葵が自分に立ち向かってくるときの好恵の気持ちです。第四話に好恵の物語があるとすれば、試合中の好恵、特に葵に押されてまくっているときの好恵の描写がクライマックスであると言えるでしょう。 * ゲームでは、好恵に魅力を感じるような話にはなっていないらしいですね。それはともかく、ゲーマーの人達の記事を読む限り、好恵だけでなく、岡田、吉田、松本と呼ばれる彼女達(第一話で委員長をいじめた三人組)はファーストネームで呼ばれていません。攻略の対象から外されているからなのでしょうか。アニメ版ToHeartでは、攻略外の女の子達も魅力的に描かれたら素晴らしいと思うのですが、どうでしょう。 (注) 引用はここから。上記はこれに対する返答です。 99/5/7 |
第五話には気になるシーンがありました。とは言っても、いい意味ではなく、逆の意味で気になったシーンです。アンカーの代わりを無理やりやらされたような「青白い男の子」が出ていました。確かにこの男の子のシーンは嫌でしたね。見たときにはそう感じたものの、その直後の浩之の疾走の感動でつい忘れてしまっていました。しかし、このシーンについてあらためて問い質されると、それがますます嫌に思えてきました。それでちょっと考えたことを以下に書いてみました。
青白い子を描き出した問題点
なぜ嫌な感じがしたのか。ある人物を目立たせるために、その人物より明らかに劣る人物を登場させたからです。このような描き出し方は好感がもてません。わかりやすい例を言うなら、別の人を貶してある人を誉めるというやり方も、好ましい誉め方ではありませんね。こうした誉め方には、誉めた人の「嫌らしさ」が見えてしまいます。貶された人の立場は一体どうなるのでしょう。子供を誉めるに当たって、片方を誉めて、もう片方を貶すという比較優劣による誉め方は御法度です。第五話で青白い子を出したことは、それとどこか共通したところがあるのではないかと私には思われます。
青白い子を選んだクラスと浩之
では、別の面から第五話を見てみます。浩之のクラスはダントツで優勝争いをしていたわけですから、人材不足であったとは考えられません。ということは、上述したように、適任者はみな逃げたということになります。断り切れない彼だけが走るように強要された。けれども、浩之が走るように決心した動機は、そうしたクラスの雰囲気とは無関係なところに設定されています。作中人物の造形とは、体格や運動能力、性格や趣味、付合っている友人などを設定することだけではありません。活動する場所の雰囲気を創造することも、人物造形の作業の内に入ってくるであろうと思われます。だとすると、クラスの雰囲気は、浩之を描き出すための要素の一つであると言うことが出来ます。
終わりに
今回は、青白い子についての問題を考えることによって、浩之の行動の意味づけをこれまでとは別の視点から探ってみました。浩之を彼の内面において理解するのが難しかったので、それなら別の方面から、すなわち、「その他大勢の人々」との関連で彼の行動に意味を与えてみたわけです。そうしますと、第一話で見せた岡田、松本、吉井の三人は、その他大勢の人々を代表していることになります。ファーストネームが与えられなかった理由も、そこに求めることが出来るかもしれません。つまり、この三人は「脇役」ではなかったのです。これに対して好恵は「脇役」でした。この脇役については別のときに触れます(ホントか?(笑))。 99/5/15 |
カレカノ第五話では、重要な人物以外の周辺の人々に色がありませんでした。製作現場の人の声を聞くと、どうしても製作の危機的状況が反映したものであると思われてしまいますが、でも、感想サイトを見て回る限り、おおむね、好意的に受け止められているようです。そうした見解によると、雪野から見れば有馬以外は無意味な存在なので、それゆえそれを白抜きで表現した、ということだそうです。 インタビューが、『もののけ姫』における群集シーンの作画の大変さについて話題が移ったときのことです。宮崎さんは、群集シーンは面倒なので描きたくなかったと言ったのですが、続けて以下のように述べました。
この引用中では「人間不信」と「蔑視」という言葉が注目されます。宮崎さんの言う「人間不信」の意味ですが、実例を挙げてわかりやすく説明してくれています。その「不信」とはつまり、満員電車に乗って、どうしてこんなに人が多いんだよ、と感じるときの「うざったい」気持ちだそうです。この気持ちには複雑な構造があって、それは、逆に相手の立場から見ると、自分もそうした群集の一人であるということを自覚している点です。群集としての他人に向ける「蔑視」は、自分にも他人から向けられているのです。これでは、不信になりますね。宮崎さんは、「都会に住んでいる人たちは、特にそうですね」とも言っています。ようするに、「都会風の気分」と言えるでしょうか。
この引用から、彼がどうして群集を描いたのか、ということがわかります。彼の誠実さの現われてあると理解することもできるでしょう。聞き手の方(記事の執筆者)は、群集の描き方に関する話題に入るところで、「人間不信と闘って無名の群集を描き切る」というサブタイトルをつけています。宮崎さんの主張はこのタイトルに凝集されています。無名の群集の徹底した描出は人間不信との闘いだったんですね。群集を描くことにそんな意味があったなんて驚きました。
ここの一節の意味は明らかです。宮崎さんの立場からすれば、庵野さんは人間不信の感情を野放しのままにしているように見えるのでしょう。引用文の「正直に言っていましたけどね」という部分に、宮崎さんの気持ちは表現されています。 98/11/6 |