Share Heart 05 : 芹香にこっそり接近の巻

 どしゃ降りのその日、オレは夜明けを待たず芹香が通う学校の敷地内に忍び込んでいた。
 広大な敷地の全周囲にいちいち防犯センサーがあるわけではない。前回は門衛の前を堂々と乗り込んでいったからチェックされたのだ。施錠されている学舎に侵入するのでなければ比較的たやすい。夜半から降りはじめた雨は勢いを増して肩に飛沫を散らす。飛沫は人影を白く燻らせて薄闇にかき消していく。

 志保の情報によると、芹香は朝一番に学長室を訪問する。きわめて形式的な挨拶だ。ほとんどの手続きは同行した代理の人間によって行われるが、その事務処理を待つ間、芹香にはわずかな自由時間が与えられる。二年に満たないとはいえ、学生生活をともにした人々と別れを惜しむには充分な時間ではない。それだけ性急な方針変更ということだろうか。

 果たして、――― 芹香は現れた。予定時刻きっかりだ。すぐそこの来賓用駐車場まで運ばれてくるのだから当然といえば当然だが、志保の情報の確かさという点には感服するしかない。
 茂みから身を乗り出して姿を追うとあざやかな赤い傘の下に芹香の口元がのぞいた。雨のしずくをともなって淡く浮かび上がるくちびるはまるで幻想のように思えた。幻想、彼女はオレにとって幻想なのか。
 オレは息を呑み、建物に吸い込まれてにじんでいく後ろ姿を見送った。すぐにでも声をかけるべきだろうか、しかし今は秘書風の男が側にいる ―― いつものセバスチャンじゃない ―― 約束の訪問時間に遅れたりしたら気づかれてしまう。護衛の人間はすぐそこの車にも何人か待機しているはずだ。

 やがて永遠とも思える時間 ―― わずか数分のことだったが ―― が経過し、彼女の赤い傘が再びオレの前に咲いた。これからしばらくは自由時間のはずだ。駆け寄ろうとしたオレはそのとき通りがかった女子学生の群れに気圧されて逡巡した。そろそろ最初の授業が始まるようだ。レインコート姿の男がいきなり茂みからとび出せばさすがに騒ぎになるだろう ―― オレは芹香のゆっくりとした歩みを追って茂みの中を移動した。

 中庭だろうか、そこはあのなつかしい日だまりを思い起こさせる。もっとも、太陽が出ていればの話だが。彼女のお気に入りの場所だったところだ ――― 彼女は雨にうたれるそのベンチの前に立ち尽くし、そして ――― まばらに遅刻組らしい女子学生の笑い声が彼女の背後を駆け抜けた ――― 芹香はじっと立っていた。なにも起きなかった。彼女はいつまでもそうして待っている気がする。オレはとても悲しくなった。オレは。
「芹香!」
 オレは叫んだ。彼女の肩がかすかに震えた、そう見えた。オレの声に、こちらを振り向く挙動に思えた。もうすぐ君はオレに。心臓が早鐘のように鳴った。しかしオレは ――― 駆け出したオレは不意にうしろから腕をつかまれそれはさっきの笑い声を上げて通りすぎた女子学生のひとりだったそしてねじり上げられ首筋に衝撃を感じ声も出せずひざをつきところどころ草の芽を散らす土の上に薄く膜をはった鏡面を雨粒がうちつけて王冠のように小さなさざなみを起こしもう一度空に向かって小さな水滴が跳ね上がるのをみつめ降り注ぐ雨粒の数だけ繰り返され果てしなく繰り返され広がる輪は互いに干渉しあって波頭をうち消しあい ――― オレは泥に頬を埋めていた。

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