□ ノースペシメン | ・―□ アニメ感想系 | ・―□ To Heart | ・――□ 第5話の問題点への雑感 | ・――□ 第5話の問題点へのレス
以下のテキストは ワタルさんの を読んでの雑感です。 神木さんの及び Animeall BBS での対話も参考にしています。 乱暴な文章で稚拙な意見ですが御容赦ください。 米山くんに対する扱いの問題 米山くんというのはクラス対抗リレーで、怪我をした高橋くんの代理のアンカーを任された青白い男の子の名だ。あかりの為にリレーに出場することを決意した浩之は、競技中であるにもかかわらず米山くんと交代し、あかりの為だけに全力で疾走した。このシーンにおいての米山くんの扱いには「嫌な感じ」がある。オレも初見のときにその点の嫌さをもっとも強く感じたし、苦言を呈さざるを得なかったから、認める。しかしその「嫌な感じ」に意味がなかったとはオレは思わない。オレがこの点を論じたいのは「こうして欲しい」とか言う為じゃない。確かに規範的な物語として「こうなるべき」という修正方法はある。でも、オレが望むのは、なぜそうじゃなかったかを考えて全肯定する、又は全否定することだ。 まず「嫌な感じ」の正体を見極めよう。2つある。 第一の「嫌な感じ」に、米山くんの存在自体だ。彼に非があるわけではない、彼を登場させてしまった意図、その意図を実現する為に用意された外見のデザインが嫌なのだ。 誰かを持ち上げる為に相対的に誰かを貶める、そういう手法はある。露骨にやられると嫌だから、その扱いは畢竟デリケートなものとなる。 たとえばオレは Win版ToHeartに登場する橋本先輩という人物を思い浮かべる。端的に書くと志保を襲おうとして浩之にのされた男、というと相当に嫌な感じだがなかなかに工夫があった。まず橋本先輩は美形のモテモテでケンカも強い、という恵まれた属性とビジュアルイメージだ。浩之は彼が志保のケツをまさぐっているところに出くわしてしまい、はじめは二人のお楽しみの邪魔しちゃ悪いと思ったのだが、殴りかかってきた彼に運悪くカウンターを入れてしまい、そこへ志保がボコボコにするという展開だった。しかもその原因は志保の方から誘っていたということで、非は志保の方にもかなりある。結果的に浩之は志保の中で相対的に株を上げ、橋本先輩は相対的に貶められることになってしまうのだが、観客のオレとしては橋本先輩も災難だったよな、という気がしてあまり嫌な気分にならない。ファンの間では橋本先輩はヤな奴、という評価があるかもしれないが、浩之と比べてスペックは高いから憐憫を買うこともなく、やむを得ない状況からして本当に嫌な奴にも思えなかった。たまたま志保の中での勝手な評価が上下しただけだ。 もうひとり、クラスメイトの矢島って奴がいた。そいつはあかりに惚れてて浩之に告白の仲介を求める。矢島は浩之の目から見ても非のうちどころのない人物で、冷静に考えたら自分なんかよりコイツとの方があかりは幸せになれるんじゃないのか、自分はあかりにとって千載一遇のチャンスを奪っていいものか、と思ったりもする。しかし「あかりシナリオに突入する浩之」ならば「矢島にあかりはやれねえ!」と自分の意志で「他人の心情を慮るという規範」を逸脱する。当たり前のことだ、自分の気持ちが他人の気持ちより優先するのは。規範に囚われ、それができない人間の方が気持ち悪い。「あかりシナリオには突入しない浩之」ならどうなるかというと、あかりは結局矢島の申し出を断って浩之の前で泣くのだが、それはまあ矢島の心情を優先し、あかりの気持ちを慮ることを軽視した結果だ。いずれにせよ結果的に矢島という人物は貶められ、浩之は相対的に持ち上げられることになる。判定は単にあかりの気持ちという理不尽だが絶対的な基準であり、観客のオレとしては決して嫌な気分にならない。矢島はいい奴には違いないが、たまたまあかりにとっては理由もなく浩之の方がずっと上だったというだけだ。 Win版から橋本先輩と矢島という例を挙げたが、ここから判断してもToHeartは件の相対的な持ち上げや貶めに相当気を使っていると思う。だからこそ米山くんのような、いかにも浩之より劣ったと一目でわかるようなデザインにしたことは強烈な違和感がある。なぜか。失敗?オレは失敗なんて言うのは嫌いだ。たとえ監督自身が失敗作だと明言しようがファンや評者が口々に失敗作だと貶そうがオレにとって意味が見出せるなら失敗ではない。フィルムは監督のもの以外の何物でもないが、オレの作品体験はオレだけのものだからだ。だからアレには意味がある。 では「状況を説明している暇はなかったのでデザインですぐそれとわかるようにした苦肉の策」か、それじゃ失敗と同じ。じゃあ「多少わかり難くなっても浩之より優れているようなデザインにする」というのもある。「足の速そうな」米山くんの判断で浩之の方がやれる、と納得したのなら、基準は誰でもない彼の内にある。ビジュアルについては、たぶんゲームならそうしただろう。アニメ版でも浩之のヒーロー性を前面に出したいのであれば、「仮に交代したとして交代しなかったよりよい結果を出せるのか?」という疑問に対して走る前に答が出ているのでは越える障壁が低い気もする。でもそういう問題じゃない。ワタルさんの指摘するように無理矢理アンカーやらされて困っている米山くんに手をさしのべる浩之にすべきだ、というのもわかる。1話の委員長(及び傍観するクラスメイト)に手をさしのべたように、冷酷な群集から一歩抜け出た人間として浩之を描くというものだ。確かにそれが正道だろう。全面的に賛同しても構わない。でもここでは実際のフィルムでは敢えて、敢えてそうはしなかったことに固執してみる。 先ほど矢島のことを書いた。浩之はここで、あかりの為、あかりに想いを寄せる自分の為に矢島という他人の心情を慮るという規範を明確に逸脱している。浩之らしくない?んなこたねえ、それが浩之だ。アニメの1話で委員長に手を貸したのも、その浩之の心の中の唯一のモチベーションは「浩之と一緒にカラオケに行きたいと願ったあかりの意志」を尊重したい自分の気持ち、それ以外に無い、とオレは勝手に思っている。結果的に委員長やクラスメイトは救われた、浩之に救われた気分になった、でもそれはただの結果でしかない。浩之にしてみれば互いに意地を張り合って無為に時間を過ごしている委員長とクラスメイト全員が敵、ムカツキの対象だった筈だ。なぜかって、それはあかりが本当に自分とカラオケに行きたいと思っていたことが今になってわかったからで、そしてカラオケにはタイムリミットがある(もちろんタイムリミットというのは志保の為というのではない)。だから浩之はもしかしたら(頭に血が上って論理性を欠いている)委員長とクラスメイト全員を敵に回す危惧を承知した上で、彼女らの意地という心情を慮ることを敢えて逸脱した上で、委員長に強引に手をさしのべたのだと思う。結果はうまくいった、うまくいったことに対して異議を唱えるつもりは浩之にはないけれども、褒められるつもりでやったわけではないのと同様に相手のことを慮っての行動ではなかったと言える。すなわち、あかりの為ならばその他大勢の他人を慮るといった規範を逸脱するに躊躇はしない、それが浩之なのである。当たり前だが個人の対人関係にはヒエラルキーがある。一番大切な人、次に大切な人達、その他大勢の人々。誰かを好きになったり愛したり、それは明確な区別あってのことだ。できれば全員の心情を慮るにやぶさかでない、しかしそれが叶わないのならばヒエラルキーの高い方から順に優先し、それ以下の規範には逸脱することもまた躊躇しない。他人の心情を慮って大切な人の気持ちが傷つけられるなんてことは絶対にしない。それが「あかりシナリオ突入状態の浩之」であると思うし、それこそが彼の魅力だ。 ならば、クラス対抗リレーでの浩之の暴挙も納得できる。あれは純粋にあかりの為にやった。弁当食いながら聞いた言葉「雅史ちゃんと浩之ちゃんがバトンタッチしているところが見たい」に浩之は目を見開いてあかりをみつめて固まっている。それは400m走の疲れから諦めかけたときに頭をよぎる(浩之内面の描写はアニメでは反則だと思うけれども)ことによって過剰なまでに強調されている。まあできればその他の女の子達の期待に応えて元気づけるという二次的な目的もあるにはある。そして最も軽視されるべきはその他大勢の規範である。彼は運動会のヒーローになったのではない、逸脱したのである。競技中に横車を押して選手交代するという逸脱、米山くんの描写の件もその浩之の逸脱ぶりを強調する為のものだったのではないかとオレは思う。敢えて「嫌な感じ」にしたのだと、視聴者にそう思わせて客観的に突き放す浩之を表現する為にそう描写したのだと思う。米山くんの気持ちなんか構わない、劣った彼を押しのけて舞台に立つことで誰にどう思われようと構っていられない、その為にあかりの期待に応えられないのであればそんな規範なんかクソ食らえだからだ。結果的に他の女の子達のいい想い出にもなれて、それはそれなりに浩之自身も嬉しいことだが、あかりが喜ぶことと併存できたからその結果になっただけでもある。浩之ならもっと配慮してうまくやれた筈という意見には頷けるけれども、浩之は決してうまく事態を丸めようとしたのではないことを声高に叫ぶ為には、敢えてうまくやれずに「嫌な感じ」を残した方が決して八方美人ではない浩之の姿に正直だ。 (浩之の「その他大勢の規範」からの逸脱がもっともわかりやすいのがマルチシナリオで、そういう浩之の言動を前提にすればあかりの為に何をやろうとも全く不思議ではないと理解してもらえると思うが。) 米山くんの件とは直接関係ないが、実はもうひとつ、ひょっとして「嫌な感じ」かな?と思ったシーンがフォークダンスであかりの相手に割り込むシーン。他の女の子とは、まあ縁があれば一緒に躍るもやぶさかでない、どちらかといえば嬉しい、しかしあかりだけは明確に区別している。少し待てば順番が回ってきてあかりと躍れることはわかっているのだが、敢えて、他の男女の気分を害すると思われようが割り込まずにはいられない。あのシーンでは米山くんのように状況説明という要請も何もない、ただあかりは他の女の子と違って特別で、あかりの元に行く為には規範からの逸脱も辞さないことを明確に示す為であり、やむを得ずそのように描写したのではなくあかりの為の逸脱行為こそが描きたかった目的そのものであると思う。 (関係ないジャンルの作品だけど、特撮の戦隊モノ「恐竜戦隊ジュウレンジャー」だったかな、その作品で戦隊のリーダーが主人公なんだけども、その兄貴が新メンバーになったけど途中で死ぬって話でのこと。兄貴は実は既に死んでいて、かりそめの命でそこにいるんだけども、あるとき死にそうな小さい男の子を助けるって話になったのよ。んで兄貴は、自分の命はかりそめのものだから男の子に分け与えてしまうって話なんだけども、そりゃもう主人公は兄貴が死んじゃうっていうので苦悩するんだけども、泣き喚いた挙句になんとか立ち直っちゃうワケ。そりゃまあ戦隊モノってのはお子様が見てるんだし助けられた男の子に泣き言ぶつけてみるわけにはいかないのはわかるんだけどさぁ、消えかけの兄貴の幽霊が出てきたときに「なんで兄さんは死んでしまったんだ、オレは兄さんに生きていて欲しかった!」って台詞のその後にオレ的には「あんな見も知らぬ子供なんかよりも、オレは兄さんに!」ってちゃんと言って欲しかった・・・。それができないのはわかるけども、その瞬間オレはそんな物語の規範なんかクソ食らえだって思ったの。まあこの例では物語構造的にはどうなのか全然わかんないけども、オレは個人的には、登場人物なんてものは物語の下部構造というか従属物みたいなもんだとはわかっていても、たとえ物語の構造が多少綻びちゃおうが登場人物の感情の噴出は制御されるべきでないって希望するの。甘いかなあ。) と、ここまでで米山くんの「嫌な感じ」の件に関して(自分自身に)全肯定できたと思う。 でも問題はもうひとつあるんだな。 第二の「嫌な感じ」、米山くんを代理に立てた2-Bのクラスメイトというその他大勢の人々の悪意、言ってしまえばToHeart全般に漂う「その他大勢の人々の愚かさ」の描写、それがとくに誇張され過ぎていて欺瞞が欺瞞とわかってしまう点。登場する個人個人はそれなりに物分かりがいいのに、なぜか寄ると烏合の衆。「世界の悪意」はその他大勢によってもたらされるものなんですか。その他大勢の人々ってのはそんなに愚かなんだろうか・・・・って気になるの。実際には適当な風評に流される個人(たとえばオレ)がその集合としての社会では実にクレバーな選択をしている、という実感がある。選挙にせよ購買活動にせよ個人は実にいいかげんな基準で行動しているのに、その集合の結果として、売れているものはそれなりに良いもので、良いものはそれなりに支持される。オレはそんなに現実に楽観してないけどToHeart世界ほど極端な色分けはないだろうと思う。でもまあそれを崩せば世界との対立も、主人公の独自性の立つ瀬も無くなるので、しょうがないか、って諦めてるけども。 ________________________________ こっから先は全否定の話になる。 「その他大勢の人々」に自分が入ってるかどうかってのは全然別問題になるかもしれない。 「自分」 VS 「その他大勢の人々」 という世界認識ならば当然入ってないのだが、 「特別な人々」 VS 「その他大勢の人々」 ならばオレはその他大勢のひとりでしかない。 ぶっちゃけた話、その他大勢に自分が入るなら今回の米山くん問題はヒッジョーにシビアなことになる。そうすると、その他大勢のひとりとして具象化した米山くんはオレ自身であるからだ。さて、米山くんはどう思っただろうか。「特別な人々」である浩之の疾走を目の当たりにして。 もちろんこの点をToHeartでは解決できない。ルートの部分にちょこっと残っている認識、オレ=浩之という、自己欺瞞の物語でもあるからだ。だからこそオレ達をイメージさせるヘラヘラして主体性の無い米山くんのビジュアルイメージはマズかったとも言える。だからこそゲームでの橋本先輩や矢島があのような姿形で描写されていたのだとも。そうしなければ、俯瞰者にせよ、感情移入者にせよ、自己欺瞞構造が崩れる。そうしなければ作品は崩壊する。 吐き気がする「タッチ」(この作品の「嫌な感じ」の残酷さは米山くんの数千倍の威力がある)ほど酷くはないが、確かに自己欺瞞が難しい方向に若干振っているのは確か。自己欺瞞の極みであるゲーム > アニメToHeart > 無神経なほど残酷な「タッチ」、というと極端だけどその端に対するカウンターを当てるとその反対側に寄ってしまうわけであり、といって欺瞞を排することもできない危ういバランスを露呈してしまったように思う。 ここから先の問題はもうToHeartとは全然関係無くなっていくんだけども、同じアニメでこの点の「嫌な感じ」を突き詰め、そして徹底的に一切の欺瞞を排した作品がある。「少女革命ウテナ」、特に「黒薔薇編」(全39話中の#14〜#23部分)の、それも特に第20話「若葉繁れる」なんか見た日にはもう、ええ、今見たんですけども、スゲーな、やっぱ。一点の曇りもねえやって感じ。ToHeartのアニメはどちらかというとゲームでの偽りの「幸せな時間」の残滓って気がしないでもない自己欺瞞の世界だけども、ウテナは完璧すぎる。 黒薔薇編は、「その他大勢の人々」が主人公の物語だ。先立つ生徒会編において互いに戦った「特別な人々」に対して脇役であった「その他大勢の人々」が抱く憧れ/憎しみが延々と描かれ、その頂点で噴出した。だから物語としては(ウテナの中で)一番わかりやすかった。なんの欺瞞も必要なく容易に物語に共感することができた。まあええかげん有名な作品だから知らん人はおらんと思うけれども。 ________________________________ 第20話「若葉繁れる」より 暁生: 「あなたにはわからないでしょうね。選ばれた運命を生きるあなたには」 「世の中には特別な人々がいます。常に注目されている、そう、たとえばあなたのように」 「ほとんどの人は皆大勢の中のひとりでしかありません」 若葉: 「お前にはわからない!わかる資格などない!」 「お前もその女も、生徒会の連中も、みんなあたしを見下してるんだ! なんの苦労もなく、持って生まれた力を誇ってなぁ! だからお前達は、みんな平然と ・・・・・人を踏みつけにできるんだァッ!!」 ウテナ: 「若葉、確かに僕にはわからないことがいっぱいある。だけど、これだけははっきりとわかってる。 君は僕の大事な友達だってことさ。だから・・・」 ________________________________ もはやコレ見た後には ToHeartにかけるべき言葉が無い。 これにて ToHeart第5話の問題点について、全否定完了。 とか言ってまたすぐ自己欺瞞の世界に戻ってきますけれども。 |
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